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子育てなんかできない! 第4稿 ゆっきぃ

《私は妊娠出産育児?で『あきらめる』のパワフルさを知りました。③》

 

みなさんお久しぶりです。ゆっきぃです。

自粛生活が続いている毎日、いかがお過ごしですか?

いろいろな面でストレスを感じていらっしゃる方も多いかもしれません。

もしよかったら“今だけ”でもこの文章を読んで頂けると嬉しいです。

『あきらめる』という言葉にはとてもパワーがあるからです。

まだ私の過去の物語のお話しが続きそうですが、“今だけ”でもこのお話しを楽しんでくれたらいいなぁと思いながら綴ります。

 

さて、前回の続きです。

もしまだ読んでいない方がいらっしゃったら前回と前々回のお話しをぜひ読んでみて下さいね。↓↓↓

子育てなんかできない! 第3稿 - 蓮華舎のブログ。

子育てなんかできない! 第2稿 - 蓮華舎のブログ。

 

妊娠31週目の検診での「んー…18…の可能性は…」という小さな声での会話。

先生たちのこの言葉に強く反応してしまった私。

それから私は『18トリソミー』というワードで検索をしまくる検索魔と化していきます。

先生たちの「…18…」という言葉でピンときてしまったんですね。

ところで『18トリソミー』ってご存知ですか?

簡単な説明を書いておきますね。

 

18番染色体が一本多いことによる疾患です。妊娠の中期~後期にかけて、胎児の発育が遅くなったり、羊水過多がきっかけとなって診断されることがあります。出生の頻度は新生児8000人に1人程度で、女児が多いとされています。

 出生時の体重が少なく、口と下顎が小さく、鼻筋がとおった細い鼻、弓状の眉毛をもつ繊細な顔立ちです。筋緊張が強く関節が拘縮し、指が他の指に重なる手の握り方で、足底がロッキングチェアの底のように丸くカーブします。

 重い心疾患があり、治療が困難なこともしばしばです。そのため分娩時や1歳までに死亡する子どもも多く、発達も遅れますが、積極的な治療によって救命される子どもも少しずつ多くなってきています。

 

 

先生は「今の段階ではグレーです。」と言いました。

私が指摘されたのは羊水が少し多いこと、胎児の頭がほんの少しだけ大きいこと、脳と頭蓋骨の間にほんの少しの空洞があること、でも心臓の疾患は目視では見当たらないということでした。

心臓の疾患が目視できていたらきっとグレーではなかったのでしょう。

 

『障害児』『染色体異常』『見た目に特徴がある』『発達が困難』

そして『短命』。

私の頭の中にそんな言葉ばかりがぐるぐると渦巻く。

 

私のお腹の中にいる子は男の子でした。

男児は女児に比べると生まれてくる確率はもっと少なく、そして生まれてきても育つ可能性はかなり低いと書いてある。

幸福だった妊婦生活がガラリと変わりました。

知れば知るほど怖くなる。

でも調べずにいられない。

お腹の中では可愛い我が子がポコポコ元気に動いているのに怖くて仕方がない。

「まぁ考えても仕方がないかぁー!もしかしたら大丈夫かもしれないし!」

と言える時間と

「…どうしよう…これからどうなっちゃうんだろう…自分の子が死んじゃうなんて私…どうなっちゃうんだろう…」

と不安に巻き込まれる時間が交互にやってくる。

そんな毎日を過ごしました。

亮一さんはそんな私の話しをいつも根気よく聞いてくれて、そしてこんなことを言いました。

「なるようになるよ。どんな子でもきっと可愛いよ。だって家に生まれてくるんだから。大変かもしれないけどきっと楽しくなるよ。」

私は亮一さんのその言葉を聞いて安心しながらも「…この人は呑気でいいなぁ…」と

ほんの少し淋しさを感じていたのでした。

 

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いつも呑気で優しい亮一さんと娘。つい先日の様子。

 

そして迎えた出産当日。

検診の結果はずっとグレーのまま。

生まれてくるまで健常児なのか障害児なのかわからない状態の出産です。

亮一さんは手術室に向かうベッドに横になっている私に向かってこんな風に声をかけました。

「ゆっきぃ!がんばって!楽しんできて!!」

健常児なのか障害児なのか生まれてくるまでわからない出産。

生まれてきて障害児だったらどんな大変な状況になるかなんて想像もつかないままでの出産。

そんな出産に向かう私に「楽しんで!」という旦那さん。

私はベッドの上から手を振り、「楽しんでくるー!!」と返しました。

 

結果。

 

私はそれはそれは見事な18トリソミーの男の子を出産したのでした。

 

それからの時間は怒涛に次ぐ怒涛。

出産後すぐに違う病院に搬送された我が子。

術後の傷の痛みと子宮収縮の痛みに身を捩りながら泣きわめく私。

痛みと不安と悲しみがごちゃ混ぜになり、混乱する。

「大丈夫なの?家の子大丈夫なの?!」

泣きながら看護士さんに聞いてもわかるはずもない。

「もう!!めちゃくちゃ痛いし自分の産んだ子にもちゃんと会えないし!踏んだり蹴ったりだよぉぉーーー!!!」

と看護士さんに変な悪態をつく私。

その後、痛みと戦いながら一晩だけ過ごした個室から大部屋に移った私の手元には赤ちゃんがいません。

他のベッドにはそれぞれのお母さんが生んだ、元気な赤ちゃんがいます。

当たり前だけど。

朝も昼も夜も私の手元には赤ちゃんがいないのに、ずっとどこかで泣いている赤ちゃんの声を聞く生活が始まりました。

 

手術後2日目には傷の痛みに耐えながら立ち上がり、前かがみになりながらなんとか歩いてアピールし、無理矢理外出許可をもらいました。

帝王切開後の傷の痛みって半端ないんですよ!!

そりゃそうですよね。

お腹と子宮を切ってるんですから。

術後3日目には車で40分かけて息子に会いに行ったのですが、今思うと自分ごとながら『母親って強いなぁ』と感じます。

 

NICUにいる息子を始めてみた時のことは今でも鮮明に思い出せます。

たくさんの管や線、訳がわからないあらゆる機械に繋がれた小さな小さな息子。

その姿があまりにも痛々しく感じて、気づいたらお決まりのこんな言葉が口から出ていました。

「…ごめんねぇ…。ちゃんと産んであげられなくてごめんねぇ…」

 

こんな風に私の『あきらめる』の新たなストーリーが始まりました。

なかなかハードじゃないですか?笑

でもこんなのはまだまだ序の口でした。

これから始まる生活の大変さ、辛さ、憤り、悲しみ…をこの時点での私は知る由もなかったのですから。

 

さて、こんなに何話にも及ぶと思っていなかった『あきらめる』についてのお話し。

きっとこれを書いていることが何かに繋がるのでしょう。

どうか途中で止めずに最後まで読んでくださいますように。

 

ではまた来月。

続きを楽しみにしていてください!

それまでみなさんお元気で!

 

 

 

オン・メディテーション (by SriM) ② ーもし自分の心が常に内なる争いの状態にあったら、どのようにして外の争いに対処できるのか。

『ヒマラヤの師と共に』の著者、SriMの最新作にして、本国で話題をさらった『On Meditation-オン・メディテーション』、現在鋭意制作中です。

'マインドフルネス' についても丁寧に解説されています。

少しずつ内容のご紹介をしていきますので、どうぞお楽しみに!

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(前回のご紹介はこちら!)

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 【On Meditation 第1章 なぜ瞑想をするのか】

Q:マインドフルネスとは何か、より抜粋。

 

もしあなたが世界をより良い場所にしたいのであれば、あなたが満足のゆくまで社会の改革を行うのも良いかもしれません。しかし、あなたの心が変わらないまま、人間の内面の本質に近づくことなく、意識こそが私たち全ての共通点なのだと知らなければ、どれだけ外側の現実を変えても暴力や争いはなくならないでしょう。私たちは自分自身の心を変えるところから始めはじめなければいけないのです。マインドフルネスの実践が必要なのです。

 

 もし私の心が常に内面的な争いの状態にあったら、どのようにして外側の現実に起きている争いに対処できるというのでしょう? 武器を捨てて、内面の平安を求めてみてはどうでしょうか? もし一人の人物がこれをできれば、たくさんの人が影響を受けます。このために、私たちは内面の変化から始めるべきなのです。

 

 マインドフルネスは外側にあり、また、内面にもあります。この両面が統合できたときに、あなたは真のマインドフルネスの中にあります。このマインドフルネスの状態が保てれば、通常の意識の次元を超えたの意識の状態を経験することが可能になります。

 

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山田麻子 今月のひと筆。2020年 5月

 

 

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Ⓒ Asako Yamada

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観/觀

見る、眺める、あらわす、様子、かたち、見方、考え、意識….

観音様が音を観ると書くように、この言葉の表す範囲は一言では尽くしがたいものがあります。

 

目で見えるものよりももっと遠くまで、深くまで、からだ全体でありさまをとらえること、頭の理解を超えて、見えないものの気配までを感じ取ること。

それにはまず、人の身体が共鳴体としてそこにあること。

  

山田麻子公式 HP

山田麻子 手書き暦 ✳︎2020年版の受付は終了しました。来年をお楽しみに!

 

【舎長おーちゃんが行く!⑥ 】違和感という宝と不協和という宝。

先日、友人と電話で話をしていたときのこと...

 

彼女はもともと個人で活動しているけれど、

外で教える機会がゼロになり、

突然孤独感のようなものが溢れたと言っていました。

テレワークになり、普段集団の中にいた方がひとり作業になったために

同じような状態になった方もおられるとのことでした。

 

なんだか、Stay at home は、

組織や何かに属している人にとっては「個」に戻される機会で

個としてやってきた人は、切っても切れない社会的なつながりを

知らされる機会のように感じられました。

 

そして、そんな話をしているうちに、

あることを思い出しました。

 

少し前、知人経由で誘われた、

ある同好会のような踊りの会に参加したときのことです。

 

ただ曲をかけて、複数人で接点を持ちながら踊る、というラフな会で、

数時間もするとある程度いい汗をかいて終わったわけですが、

その後しばらくの間、違和感が消えませんでした。

その正体が何なのかよくわからず、しばらくの間かなり悶々としていました。

 

当時何を思って申し込んだのかよく覚えていないのですが、

そのすぐ後に、外国から コンタクト・インプロビゼーション

というジャンルの専門の先生が来日するとかということで開かれた

ワークショップになぜか申し込んでいた私。

 

コンタクト・インプロというのは、

相手に寄りかかったり、重心、重力を活用しながら、

接点<コンタクト>を保ちつつ動く即興ダンスのことです。

 

接点を保ちながら動けばいいだけの話で、

接点の移動に伴って動きが半自動的に誘発され続けるので、

動くこと自体は難しいことではありません。

そして、先ほどの同好会でも主に

こんな感じの接点ダンスが永遠と続いていたわけです。

 

このワークショップで、私はあの時消化できなかった

違和感の正体が何か、やっとわかった気がしました。

 

ある程度動いた後でコンタクトの先生はこのように指摘されました。

 

お互いの持つ抵抗(拮抗する力)を受け取りながら動くこと。

手でタッチする時には相手の身体を感じ受け止めながら触れること。

 

それを聞いてやってみたときに、ハッとしました。

異物と異物がある接点で出会った時に、

まずは違いを感じる必要があったんだと思ったからです。

「抵抗を受け取る」というのはそういうことだと思います。

 

そのうえで、相手の呼吸を知り、

力加減や方向を感じ取りながら動いていくと、

ある質感を伴った充実した一つのまとまった動きになって、

同時に、自分が今までできなかった方向への動きすら

スムーズに身体に馴染んでくることがわかりました。

 

それはコミュニケーションそのもので、

うまくいけば最初に感じた抵抗や、そこにあった異物感もまた

快い動きの連続の中に昇華されていくようでした。

そして直接の接点から離れて動いてもその一体感は無くなりませんでした。

 

 私が先に感じた違和感は

 「ただ接点に促されて動く」という

一見スムースに見える動きの連続の中に

相手の存在を認めていなければ、自分の存在が認められることも

なかったからだと思います。

 

その皮膚の表面をさらうだけのようなコミュニケーションには、実は

「誰も存在していなかった」し「何も起こらなかった」から

だった思います。

 

それは言うなれば、ちょっと苦しいものでした。

 

もしかすると、それは、世間的な会話そのものであったのかもしれません。

 

違和感は生命の向かう方向と逆の時に鳴る

アラームのようなものなんだなと思いました。

 

 

触れる、ということは、最も原始的なコミュニケーションの一つだと思います。

そこにはすべてが出てしまいます。

 

そして、直接にせよ間接的にせよ、わたしたちは

人と'触れる'ことでコミュニケーションをとって生きています。

ただの世間話もあれば、無言の深いやりとりだってあるでしょう。

 

以前ご紹介した、小野田さんのブログに、こんなことが書いてありました。

>>

楽器の音作りもそうなのですが

それまでにない未知の振動を内在させるためには

一度不協和領域を通過していかなくてはなりません。

 

そして、新たに付け加えられた振動は

それまでにある振動の塊を全く別のものに変えてしまいます。

 

1+1が2になるという反応ではなく、

1+1が無限の可能性を秘めた反応になるのです。

https://ameblo.jp/phonograman/entry-12591277045.html

>>

 

私たちは体を持った別々の個体です。

一人一人違う共鳴を持っていて、

きっと、それとそれが出会った時には、不協和が生じることもあるでしょうし

深く関われば関わるほどに、その影響は大きくなるかもしれません。

 

不協和は、不快です。

でも一方で、私たちはきっと

この不協和をどこかでどうしても必要としているのだと思うのです。

''それまでにない未知の振動を内在させる''ため、

不協和という不快を受け止めた先にある

新しい自分と新しい世界の可能性に飛躍するために、

どうしようもなく「他」を必要としているのだと思います。

 

 

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早くも夏の気配 !

 

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ヒマラヤの師と共にー蓮華舎より送料無料、即日発送対応致します。

緊急事態宣言等を受け、多くの書店さんが店頭販売を取りやめ、営業自粛等に入りました。

SNSでご紹介させていただきましたしたように、個人書店さんでも通販が可能です。

里山社さんがまとめてくださいましたので、どうぞご活用いただけたらと思います。

2020年4月以降、全国の通販で買える個人書店一覧(4/17更新)|里山社|note

 

チェーン書店さんの通販のまとめもしていただいていますので、こちらも併せて御覧下さい。街の書店がやってる通販サイトまとめ|ライツ社

 

 

また、蓮華舎のウェブショップ(下記リンクよりどうぞ)・お電話・メールでもご注文承ります。また、この期間が収束するまでは、送料も無料にさせていただきます。

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オン・メディテーション (by SriM) ① ー外の世界との社会的な関わりを通してのみ、心の働きを知ることができる。

『ヒマラヤの師と共に』の著者、SriMの最新作にして、本国で話題をさらった『On Meditation-オン・メディテーション』。

瞑想がこれだけ広く浸透しているにもかかわらず、情報が余りあるために、逆に雲をつかむような状態にある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

本書は、ヨーガの伝統を踏まえながら、現代的な生活の中で瞑想に親しんで行く方法について、陥りがちな方向について、ユーモアを織り込みつつ、的確なガイダンスが繰り広げられています。

現在、蓮華舎では本書の邦訳版の内容について訳者の青木さんと精査を行っています。

本書内容について、これから随時、こちらでご紹介していきたいと思いますので、

どうぞ、ご期待下さい!

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 【On Meditation 第7章 瞑想と日常生活】より、下記抜粋。

 

自分の心を観察して、思考の過程をたどっていくのも一つの瞑想の形です。観察を通して、自分の思考、行動や、限定された見方をより意識することになるからです。 

このことに関して付け加えたい点があります。

あなたが内面を探求して、自分自身を知りたいと思うのであれば、世の中で生きながら取り組む以外の方法はありません。これは洞窟の中に一人で座っていても不可能なことなのです。もちろん、時には静かな場所でしばらく座るのも良いでしょう。しかし、洞窟が必要なわけではありません。自分の部屋のドアを閉めて、家族にしばらく邪魔をしないでほしいとだけ言えば、自宅もあなたのための洞窟になるのです。

心がどのような状態にあるか、どれだけ成長したか、どのような性質があるのか、状況にどのように反応するのか。

外の世界との社会的な関わりを通してのみ、これらの心の働きを知ることができます。これ以外の方法はないのです。

 

ですので、世の中で生きて仕事をしながらも、自分の思考や行動を常に観察することが大事です。繰り返しますが、これはとても重要なことです。

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子育てなんかできない! 第3稿 ゆっきぃ

子育てなんかできない! 第3稿  ゆっきぃ

《私は妊娠出産育児?で『あきらめる』のパワフルさを知りました。②》

 

お久しぶりです。ゆっきぃです。

前回の投稿からもう一ヶ月もたってしまったんですね。早いなぁ。

今、世の中が大きく動いておりますね。

みなさまは元気でお過ごしでしょうか?

私たち家族は家でのほほんと過ごしております。

不安や焦り、恐怖に巻き込まれそうになっている方がもしいらっしゃったら、今だけでもこのお話しを読んで『自分』に戻ってみて下さい。

もしよかったらお付き合いくださいね。

 

さて、前回の続きです。

まだ読んでない方がいらっしゃったらまずはこちらをご一読ください。↓↓↓

子育てなんかできない! ゆっきぃ 第二稿 - 蓮華舎のブログ。

 

最愛の旦那さまの言葉を聞き、『あきらめる』とはどういうことだろう?と少し首を傾げながら考え始めた私ですが、それはなかなかに難しいことでした。

やっぱり娘を帝王切開で産んだことがひっかかっていたし、それのせいで母乳も思うように出ないのではないかと何度も何度も考えました。

出産は仕方がなかったかもしれないけど、だったら母乳育児だけはなんとしても!と半ば意地になっていた私は桶谷式のおっぱいマッサージに何度も通い、指導を仰ぎましたが行くたびに食事内容について怒られる始末。

「ご飯は一日最低3合は食べなきゃ!大きなおにぎりを朝何個も作っておくのよ!そしたらいつでもたべられるでしょ?ゆっきぃさんは量が少なすぎる!もっとご飯を食べなさーい!」

って、言われたってねぇ。そんなに食えんのですよ。でも無理やり大量のご飯を食べてる私は一体何がしたいのかわからなくなりました。

そして夜中の授乳は母乳にとってとても重要だと言われ、がっつり寝ている娘におっぱいを必ず咥えさせてくれと言われたのです。

母乳育児に意地になっている私は熟睡している娘に泣く泣くおっぱいを咥えさせたのですが…

 

結果、娘大号泣。

そりゃそうだよね。笑

 

「そんなに食べたくもないご飯を食べるの辛くない?」

「ぐっすり寝てる時に飲みたくもないおっぱい飲ませられるのって普通いやだよなぁ…俺だったら嫌だなぁ…」

「母乳じゃなくてミルクでもいいんじゃない?だってさ、今娘ちゃんは元気だしご機嫌だよ。

娘ちゃんもゆっきぃもご機嫌のほうがいいよ。俺よくわかんないけどさ。」

 

旦那さんのその言葉にすこーし反発を覚えながらも「そ、そうですよね!私、楽していいんですよね!!」と目が覚める私。

それから私は一体何でこんなに『自然分娩』や『母乳育児』に固執しているんだろう?と改めて考えました。

そうすると、とても面白いことがわかってきたのです。

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夜中におっぱいをむりやり咥えさせられていた娘(8歳。)が書いた「どんだけぇー!!」 あの時はすいませんでした。

 

私の母親は私を含め、3人を帝王切開で出産しました。

一番上の姉がお腹にいる時に逆子が治らなかったからです。

兄を出産するときは自然分娩にチャレンジするも、子宮口が開き切らず、泣く泣く帝王切開になりました。(私と同じ。)

で、必然的に私を産むときも帝王切開出産。

そんな出産を経験した母の口癖があります。

 

「お母さんは3人とも下から産むことができなかったから女として欠陥品なのよぉ。あんたたちをちゃんと産んであげられなかったのよねぇ。ごめんねぇ。」

 

私は小さいころからこの口癖を何度も聞いてきました。

もちろん母に悪気はありません。

母も口惜しかったのでしょう。

“いつの間にか”私はこの母の言葉を自分の中に持ち続けていたのでした。

無意識に。

そして「私が自然分娩をしてお母さんを安心させてあげなくちゃ。」という気持ちが湧いてきていたのです。

もし私が帝王切開で出産してしまったら母が悲しむだろうし、「お母さんのせいで…」とか言われちゃうだろう。と。(姉も帝王切開で出産していたものですから尚更です。)

それに加え、私は私を「女として欠落している存在だ」とずっと思っていて、とても自信がなかったのです。

出産と育児でそれを覆してやる!そうじゃないことを証明してやる!と“いつの間にか”思っていた私。

“いつの間にか”って怖いです。

自覚するまで無自覚ですからね。(当たり前か)

私は出産と母乳育児が思うようにいかなかったことで無自覚だったことを自覚することができました。

私は私がそんなことを思っていたことに気付き、「あはは」と笑いました。

出産方法や育児方法と『女として欠落している』とは全く関係ないじゃん!!

ましてや母親の人生と私の人生は全く違うものじゃん!!

そんなとてつもなく当たり前のことに「あはは」と笑いながら気付いたのです。

私はやっとあっけらかんと「まぁ帝王切開だったけど別にいいじゃん」「まぁ母乳とミルクの混合育児でも別にいいじゃん」と思えたのです。

「あはは」と笑えたその時、もしかしてこれが『あきらめる』なのかもしれないと“ほんのり”思えました。

それからの私は毎日らくーに楽しく可愛い娘ちゃんと愛しい旦那さんとますます「わはは」と笑いながら過ごしていたのですが…

 

私が『あきらめる』を知るのにはこんな生ぬるい出来事ではだめだったのでしょう。

なにせ『あきらめの悪い女』ですから。

 

その後、私にさらなる『あきらめる』を体感させるようなとても大きな出来事が起こります。

その出来事は突然やってきました。

 

娘が2歳になった時、私は旦那さんに「もう一人子供が欲しい」と言いました。

娘が弟か妹と一緒に遊んでる姿が見たかったからです。

私は『子どもが2人の4人家族』を夢見ました。これはきっとよくある普通のことですよね。

一度流産を経験したのち、私は無事に妊娠をしました。

(流産もけっこう悲しかったですよ。びっくりしたし。)

とても嬉しかったし、これで夢見た通りの家族がつくれる!と歓喜しました。

つわりは相変わらず辛く苦しかったけれど、そんなものだと思っていました。

十月十日後には元気な赤ちゃんが生まれてくるんだから今は仕方がない、と。

 

が。

 

妊娠31週の検診の時、担当の先生がこんなことを言いました。

 

「んー…ちょっと頭が大きいなぁ…」

 

エコーを診る時間がやたら長い。

ずっと診続けている。

 

「ちょっともう一人の先生に診てもらいますね。」

担当の先生はいつもなら呼ばないもう一人の先生を呼びました。

その時、2人の先生の会話からこんな声が漏れ聞こえてきたのです。

 

「んー…18…の可能性は…」

 

私は聞き逃しませんでした。

18という数字を。

すぐに私の脳裏に『18トリソミー』という言葉が浮かびました。

 

私の楽しい2人目妊婦生活はここからガラリと変わります。

 

さて、そのお話しはまた次回。

ここから何が起きるのか?!

よかったら次回も読んでくださいね。

ではまた!