蓮華舎のブログ。

出版社 蓮華舎のブログです。新刊のこと、著者のお話、寄稿、取材記、舎長の日誌など。

【舎長おーちゃんが行く!⑥ 】違和感という宝と不協和という宝。

先日、友人と電話で話をしていたときのこと...

 

彼女はもともと個人で活動しているけれど、

外で教える機会がゼロになり、

突然孤独感のようなものが溢れたと言っていました。

テレワークになり、普段集団の中にいた方がひとり作業になったために

同じような状態になった方もおられるとのことでした。

 

なんだか、Stay at home は、

組織や何かに属している人にとっては「個」に戻される機会で

個としてやってきた人は、切っても切れない社会的なつながりを

知らされる機会のように感じられました。

 

そして、そんな話をしているうちに、

あることを思い出しました。

 

少し前、知人経由で誘われた、

ある同好会のような踊りの会に参加したときのことです。

 

ただ曲をかけて、複数人で接点を持ちながら踊る、というラフな会で、

数時間もするとある程度いい汗をかいて終わったわけですが、

その後しばらくの間、違和感が消えませんでした。

その正体が何なのかよくわからず、しばらくの間かなり悶々としていました。

 

当時何を思って申し込んだのかよく覚えていないのですが、

そのすぐ後に、外国から コンタクト・インプロビゼーション

というジャンルの専門の先生が来日するとかということで開かれた

ワークショップになぜか申し込んでいた私。

 

コンタクト・インプロというのは、

相手に寄りかかったり、重心、重力を活用しながら、

接点<コンタクト>を保ちつつ動く即興ダンスのことです。

 

接点を保ちながら動けばいいだけの話で、

接点の移動に伴って動きが半自動的に誘発され続けるので、

動くこと自体は難しいことではありません。

そして、先ほどの同好会でも主に

こんな感じの接点ダンスが永遠と続いていたわけです。

 

このワークショップで、私はあの時消化できなかった

違和感の正体が何か、やっとわかった気がしました。

 

ある程度動いた後でコンタクトの先生はこのように指摘されました。

 

お互いの持つ抵抗(拮抗する力)を受け取りながら動くこと。

手でタッチする時には相手の身体を感じ受け止めながら触れること。

 

それを聞いてやってみたときに、ハッとしました。

異物と異物がある接点で出会った時に、

まずは違いを感じる必要があったんだと思ったからです。

「抵抗を受け取る」というのはそういうことだと思います。

 

そのうえで、相手の呼吸を知り、

力加減や方向を感じ取りながら動いていくと、

ある質感を伴った充実した一つのまとまった動きになって、

同時に、自分が今までできなかった方向への動きすら

スムーズに身体に馴染んでくることがわかりました。

 

それはコミュニケーションそのもので、

うまくいけば最初に感じた抵抗や、そこにあった異物感もまた

快い動きの連続の中に昇華されていくようでした。

そして直接の接点から離れて動いてもその一体感は無くなりませんでした。

 

 私が先に感じた違和感は

 「ただ接点に促されて動く」という

一見スムースに見える動きの連続の中に

相手の存在を認めていなければ、自分の存在が認められることも

なかったからだと思います。

 

その皮膚の表面をさらうだけのようなコミュニケーションには、実は

「誰も存在していなかった」し「何も起こらなかった」から

だった思います。

 

それは言うなれば、ちょっと苦しいものでした。

 

もしかすると、それは、世間的な会話そのものであったのかもしれません。

 

違和感は生命の向かう方向と逆の時に鳴る

アラームのようなものなんだなと思いました。

 

 

触れる、ということは、最も原始的なコミュニケーションの一つだと思います。

そこにはすべてが出てしまいます。

 

そして、直接にせよ間接的にせよ、わたしたちは

人と'触れる'ことでコミュニケーションをとって生きています。

ただの世間話もあれば、無言の深いやりとりだってあるでしょう。

 

以前ご紹介した、小野田さんのブログに、こんなことが書いてありました。

>>

楽器の音作りもそうなのですが

それまでにない未知の振動を内在させるためには

一度不協和領域を通過していかなくてはなりません。

 

そして、新たに付け加えられた振動は

それまでにある振動の塊を全く別のものに変えてしまいます。

 

1+1が2になるという反応ではなく、

1+1が無限の可能性を秘めた反応になるのです。

https://ameblo.jp/phonograman/entry-12591277045.html

>>

 

私たちは体を持った別々の個体です。

一人一人違う共鳴を持っていて、

きっと、それとそれが出会った時には、不協和が生じることもあるでしょうし

深く関われば関わるほどに、その影響は大きくなるかもしれません。

 

不協和は、不快です。

でも一方で、私たちはきっと

この不協和をどこかでどうしても必要としているのだと思うのです。

''それまでにない未知の振動を内在させる''ため、

不協和という不快を受け止めた先にある

新しい自分と新しい世界の可能性に飛躍するために、

どうしようもなく「他」を必要としているのだと思います。

 

 

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早くも夏の気配 !

 

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