蓮華舎のブログ。

出版社 蓮華舎のブログです。新刊のこと、著者のお話、寄稿、取材記、舎長の日誌など。

【舎長おーちゃんが行く!⑧】「母」がいてはじめて、 私たちは「境界」に接することができる、の巻。

たいへんご無沙汰ながら、ようやく書けそうな気が...!

ということで、

おーちゃんが行くシリーズを更新してみようと思います。

 

やっと! 先月『母の力』が刊行されました。

実に『恩寵の力』が発売されてから1年弱もかかってしまいました!!

 

そろそろ出さねば会社も回らない!

という現実的な切羽詰まり感以上に、

今回はもっと切羽詰まった事態にありました。

 

というのも、

前作『恩寵の力』が出版されてから私個人としても怒涛の日々で

『母の力』の出版プロジェクトがはじまってからは

その渦がさらに大きくなっていったのです。

 

なんと、、、!!

お腹に赤ちゃんがやってきたのです!

わぉ~!!すごい、何と言うかわかり易い!と思ったのも束の間、

気づけばその渦に飲み込まれ、溺れてしまうのではないか

とも思われるような「母の力」に翻弄される自分を発見し

それによってなかなか進行も思い通りにはいかず

しかし、生まれる前に本を出さなければ....!

というタイムリミットが眼前に浮上した瞬間でもあったのです。

 

そして

「自分の体の中にいる自分とは別の何か」によって

言い換えれば、

「身体」に翻弄されるいわば超‘’マーヤな”出来事と共にあって

しかも、自分の中にいるものがどうやら

「自分とは別の魂を持っているらしい」ことを肌で知るにつれて

私にとっての『母の力』プロジェクトはまた

まだうまく言語化ができてはいないのですが、

不思議な仕事となっていきました。

 

原稿のあれこれをする段階を経て、市場に出す段階になると

現実的な仕事が目白押しになるので、

無事発刊されてからゆっくり読み返すこともできていませんでしたが、

発売から1か月経ってやっと時間が取れ、ぱらぱらと読み返していると...

 

「母」は時間や空間をはじめとする、あらゆる物を創造しました。

「父」は空間であり、「母」は時間であると既に書きましたが、

そもそも神においては時間と空間の本質はそのうちに内在しています。

しかし、神という非顕現な状態では、この時間は在っても顕現しません。

「母」の創造を必要とするのです。

神=「父」の存在の状態は、空間的であると言えます。

しかし、その存在が空間的であると認識されるのは

「母」のマーヤによって時空が顕現したからこそはじめて認識されうるのです。

(「母の力」第一部166頁) 

 

....というところで、

もう何回も何回も読んでるはずなのに

あらためて手が止まりました。

そして、うぉ~すごいな!と唸りました。

 

「母」による創造がなされてはじめて

「母」がいてはじめて、

私たちは「境界」に接することができるのだ

ということをあらためて感じたからです。

 

思えば、赤ちゃんがお腹の中にやってきてすぐ

科学的に(?)言えば、ホルモンの変動によって、

感情の波や身体的な不快感の渦に不可抗力で支配されていたとき

「どうして私の体なのにこんなにどうしようもないんだ!?助けてくれ~!」

と心の中で何度叫んだことか。

その思いに十分苦しんだ後、

私の体の中に、別のものがいる。

.....ん? まてよ、「これ」は私ではないのだ!

だから「私のもの」として理解しようとしてできるものじゃないんだ。

ということにハッと気づいて、

そこから少しずつ気持ちが落ち着いていきました。

科学的(?)に言えば「胎盤が完成して、つわりが落ち着く」ということに

なるのだと思うのですが

私からすれば、その理解を得させるための「母」の恩寵(≒叱咤

であるとすら思えました。

 

同時に、「私」と「私のお腹のなかにいるそれ」との

明確な境界を感じた瞬間でもありました。

 

あちら側とこちら側にまたがって存在する「母」

絶対者とこの世界の間に存在する「母」

「1」の状態では感じることのできない、

「2」以上の豊潤な世界ではあるけれど

「2」以上に埋没して我を忘れると「1」に戻れなくなってしまう。

そんな、紙一重の境界線を生み出す「母」

この本には、そんな「母」の怒涛の(この字、母にぴったり!)

シャクティ(力)が

にじみ出てあふれ出てしまいそうなくらい詰まっていると感じます。

そして、それがとりもなおさず、

「母」の愛なのだとも思います。(怖いけど)。

 

そして。

つわりが落ち着き、妊娠前と同じような

「絶対」に繋がっている安心感を取り戻したのも束の間...

今度は、お腹の中の「それ」の存在感が増して行く日々となっていきました。

お腹はどんどん大きくなり

ついに子宮は元の大きさの1000倍に達し

お腹がはちきれそなくらいの元気な胎動とともに

「ここにいます!」と言ってくる、「それ」。

当然私の意識は、今度は「それ」に翻弄されていきました。

 

子の宮とはよく言ったもので、この臓器はどうやら

自分のためのものではなく

自分ではない何かを保護するためのtempleであるようなのでした。

そして、その中にいる「それ」には、いつの間にか、どこからか

それを個として成立させる「魂」なるものが

しかと収まっているようなのです。

その壮大な仕組みを思うと、頭がくらくらする気分に襲われてきます。

 

一体全体、それは、どこからやって来るのでしょうか?

 

それをこのマーヤの世界に送り込む意図は何なのでしょうか?

 

わざわざ1ではなく、多の世界に送り込まれておきながら

1に戻るための模索をするとは、、、

何たることでしょうか!?

 

こっちの二元の世界においては完全に一元を忘れて二元で生きているけれど

この一元と二元のラインが「母」であって

そのラインを経験すると、そもそも「母」があるわけではなく

在ったのは神だということになります。

ですから、やはり「結局は神なんだ!」ということになるのです。

(第二部 講話と問答p289)

 

こちら側とあちら側を超えていくために必要なのが

その境界にいる「母」の恩寵であるのなら...

 

私たちはもっともっと、「母」の意図を思いながら

「母」と共に生きてみるのもいいのかも、しれません。

 

もしかすると、その世界はより豊潤であるような気がしています。

 

ぜひ『母の力』読んでみてくださいね(^o^)丿

どこにもいまだかつて

書かれていなかったことばかりだと思います。