蓮華舎のブログ。

出版社 蓮華舎のブログです。新刊のこと、著者のお話、寄稿、取材記、舎長の日誌など。

子育てなんかできない! 第8稿 ゆっきぃ

 

《今更ですが子育てってなんですか?》

 

こんにちは!ゆっきぃです。

もうすっかり朝晩の風や日中の日差しが『秋!』ですね。

夏が大好きな私としては毎年この時期がとても寂しいです。

みなさんはどうですか?

でもなんですかね、歳ですかね。

「秋もいいもんだなぁ…。」なんて思い始めちゃったりしています。

 

さて。

前回で『あきらめる』について書き切ってしまった私は「はて?今回は何を書こうか?」と首を捻っています。

あれは絶対に書きたかったものなので、すこぉしだけやり切った感がありまして。

(「少しだけやり切った感がある」って変な日本語だな。)

 

前回のお話しにも書きましたが、あれが私の長い自己紹介です。

いつも、いつだってあれをベースに生きています。

いつだって「明らか」に「観て」いきたい。

あきらめていたい。

これが私のベースです。

(なかなか難しいのですけれど。)

 

『あきらめるシリーズ』をまだ読んでいないという方はこちらをぜひどうぞ。↓↓↓

 

子育てなんかできない!1~7稿

 

かつての私は「いい女になろう!なりたい!」や「いい奥さんになろう!なりたいんだ!」、そして「いい母親になろう!ならなければ!」といつも意気込んでいました。

素の自分のことが大大大大嫌いな時期が長かったためです。(今も心から『大好き!!』とは言えませんが。未だにあきらめが悪いっす。笑)

いい女になろう!いい奥さんになろう!良い母親になろう!はどこか前向きな感じがして、良いことをしているような錯覚に陥ります。

『努力をしている素晴らしい前向きな人』と見られることもあるでしょうし、そんなイメージがありませんか?

私はどこかでそんな風に感じていました。だからいいことをしているんだ!と。

(書いていて恥ずかしいです…。)

ですが。

ですが!です。↓↓

「いい女になろう!なりたい!」は、言い換えると「今はまったくいい女ではない!こんな私はダメだ!」です。

「いい奥さんになろう!なりたいんだ!」は「今は全然ダメだ!こんなんではダメだ!」です。

「良い母親になろう!ならなければ!」は「このままではまったくひどい母親だ!この子のためにならない!ダメだ!」です。

 

なんということでしょう。

私は無意識にこんなことを繰り返していたのです。

この『無意識に』がとても怖い。

だっていいことをしているような気になっているんですから。無意識に。(怖い!!)

私は私に毎日しこたまダメ出しをしていたのです。

これでもか!と言わんばかりに。

無自覚、無意識に。

 

「いい母親になろう。いや、ならなければ!」って思いません?

子どもができたら割とみんな思うんじゃないかな。

だって目の前にいる我が子はめちゃくちゃ可愛いですから。

その前にあった「いい奥さんになろう!」「いい女になろう!」すら忘れてしまうくらい思うんじゃないでしょうか。

 

私はある日、愕然としました。

私は私のもっている「良い母親像」に自分を当てはめようとしていることに気付いたからです。

私は私のもっている「いい女像」「いい奥さん像」「良い母親像」にいつもいつも自分を当てはめようとしていたことに気付いたからです。

私の思っている「良い母親」が誰にとってどう「良い母親」なのかもわからないのに。

そもそも「良い母親像」がいつ創られたかもわからないのに。

それに私の持っている「良い母親像」が目の前のこの子にとっての「良い母親」なのかどうかもわからないのに。

私は私の頭の中にいる「良い母親像」をちゃんと観て、それからきょろきょろと探しました。

「え?そんな人どこにいる?そんな母親どこにいますか?」と。

 

お料理は完璧。

いつも朗らかで明るい。

家事はいつもばっちり。

家計をうまくやりくりしている。

旦那さんをいつも立てている。

質素倹約。

無駄使いはしない。

いつも優しい。

いつだって子どもと旦那さん優先。

でもいつも身綺麗で美しい。

 

私がもっていた「良い母親像」はこれでした。

昭和感ヤバい。笑

モデルのベースは私の母親でした。(←お決まりのパターン。)(しかも実際の母親はこんなに完ぺきな人ではありません。あくまでもベースです。)

これがあまりにも私とかけ離れすぎていてとても苦しかったのです。

当たり前ですよね。

どこにもいない、頭の中だけにいるこの女性になろうとしていたのですから。

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夏休みに南伊豆に行きました。朝の海。いい写真だな。

私はこれに気付いた時に「こんなの止めよう!」と思いました。

そんなのおかしいじゃん!と思ったし、とても窮屈に感じていたからです。

でも、止めようと思ってもなかなか止められていない自分に出会いました。

ふとやってしまう行為、何気なく言ってしまう言葉、それらにびっしりとその思い込みがこびりついているのです。

 

ほんとは今やりたくない家事なのに「いいよ、私がやるから。」という私。

何もわかっちゃいないのに「子どもにはこのくらいの躾はちゃんとしなければね。」とママ友さんたちと話す私。

「子どもを○○時までには寝かしつけなきゃ。そうじゃなきゃ子供にとってよくないから。」と頑なに時間を守ろうとする私。

自分の体調が悪かろうがちゃんと身体に良い食事を毎回毎回必死に作ろうとしている私。

もう全てが自分の持っている「良い母親像」に合わせた言葉や行動でした。

いくらそれをもう止めよう!と決意しても、ずっと無意識にやっていた行為を止めることはできないことを知りました。

だから私は「まず気付こう。」としました。

そして自分が言っている言葉、やっている行為に疑問を持とうとしました。

それはどこから言っている?

それはどうしてやった行為?

それほんとう?

と。

今でもそれを続けています。

どこまでも続くこの強固な『思い込み』を壊したいからです。

どこまでものびのびと生きたいからです。

私は誰だろう?どこにいるんだろう?を知りたいからです。

 

そうしたらわからなくなりました。

 

『子育て』ってなんですか?

 

私がどこにいて、何がどうなって今これを思っているかもよくわからないのに、私が誰かを育てることなんてできるのでしょうか。

 

結婚してすぐの頃、私は母親の前でこう呟きました。

「子どもは…欲しいとは思ってるんだよねぇ…。」と。

子どもを産む自身も育てる自信もまるでありませんでしたが、元々子どもが大好きだったのでそう呟いたのです。

私の母親はその言葉を聞いてこんな言葉を口にしました。

「子どもは可愛いわよぉ!でもね、可愛いだけじゃ育てられないからねぇ。」

 

これ、よく聞く言葉じゃありませんか?

私は母親のその言葉を聞いて「そうだよなぁ。」となんとなく納得してしまい、そして怖気づきました。

そんな大層なこと私にはできない、と。

 

でも今現在、9歳になった娘がいる私はこう思っています。

「可愛いだけでも育つよ。」と。

 

夫の亮一さんはよくこんなことを言います。

「家族ってチームみたいなもんだね。」と。

『生きる』ってどういうことだろうね?と模索し合うチームだと。

そしてどうせなら『楽しく幸せに』生きるってどういうことだろうね?を模索したいよね。と。

父親という肩書『も』持ちながら、母親という肩書『も』持ちながら、娘という肩書『も』持ちながら、一緒に暮らして「楽しく幸せな人生を生きる」もしくは「生きる」とはどういうことだろうね?とお互い模索し合うチーム。

素敵じゃないですか?

 

亮一さんと私と娘はチームメイトです。

親と娘という肩書はありますが、これはただの肩書です。

対等だと思っています。

私は彼女を尊敬しているし、尊重もしたい。

応援もしたいし、もし助けが必要なら全力で助けたい。

でも私も応援してくれたら嬉しいし、助けてもらいたいときは正直に「助けて!」と言いたい。

 

さて。

子育ってってなんでしょう?

私にはわからないし、できません。

良い母親にもなれません。

でも毎日がとてものびのびしていて以前よりはずっとずっと楽です。。

 

娘がある日こんなことを言いました。

「ママは変わってるよね。お友達も言うよ。○○ちゃんのママって変わってて面白いね!って。」

私は「へー!どこが?」と聞きました。

娘はちょっと考えながら「なんか…親らしくないっていうか…とにかく面白いよ!」と言った後、こう続けました。

「○○ちゃんは大きくなったらママみたいなママになりたいよ!」

 

 

…順調に変わった娘に育っているようです。笑

私は“子育て”なんてした覚えがないのに。

 

これが正解かなんてわかりません。

これでいいのかな…?と思うこともしばしばあります。

でもいつだってここに立ち返ります。↓↓

 

みんな何にもわからないまま生きているんだね。

『生きる』の正解がわからないんだからね。

だったら少しでも楽しく生きたほうがいいと思わない?

はて?

ところで楽しいってなんだろうね?

探しながらいこっか!一緒に。

ママもよくわからないし、パパもよくわからないまま生きているから間違えることもたくさんあるけれどさ。

一緒に泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり憤ったりしながら、よかったら一緒に行こうか!

一緒の方がきっと勇気も出るし、もし失敗しても笑えるよ。

とりあえずよかったら一緒に探してみない?

ママもパパも探しているんだ。

探してる最中もきっと楽しいね。

 

今日も私は相変わらず子育てができません。

仕方ないね!あははは!

もう笑っちゃおう!

 

今月も読んでくれてありがとうございます。

来月は何を書こうかな。

よかったらまた読んでみて下さいね。

ではまた。

『オン・メディテーション 』bySriM 2020年10月刊行!「相対的なものは真の実在とはなり得ません。」ーなぜ瞑想するのか⑥

『ヒマラヤの師と共に』のSriMの最新作!『オン・メディテーション 現代を生きるヨーギーの瞑想問答』2020年10月発売!

「私たちはなぜ瞑想するのか⑥」

昨年のパブリックに向けた講演会の内容で、とてもわかりやすい動画になっています。本への導入としてもおすすめです。

本書はマインドフルネスや呼吸と身体、ヨガ、そして意識について余すところなく91のQ and A方式で書かれています。お楽しみに。

ニュースレターのご登録はこちら!: 出版社 蓮華舎

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<一部抜粋>

ヴェーダーンタの哲学者、そしてウパニシャッド哲学は次のように言います。それでは真の実在とは何か?相対的なものは真の実在とはなり得ません。

しかし、これら全てを目撃しているものがあります。この目撃者こそが真の実在です。これやあれ、正しい間違っている、こういったことに気づいている意識、つまりサットなのです。いわゆる「現実」とは異なるものです。

そして、この真の実在こそが、私たちの本質なのです。これが、ヴェーダーンタが述べていることです。

 

そして、あなたがそれに触れると、あなたはすべての相対的なものを超え「絶対」へと到達します。「サット」です。もし真実がそうであるのならば、それはどのような種類のものなのでしょうか。物質的なものでしょうか? 無生物でしょうか? 

それは「意識」です。

 

.....(続きは動画をご覧下さい)

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Part1-1〜1-5まではこちらから!

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#ヨガ #ヨギ #マインドフルネス #瞑想 #呼吸 #身体技法 #ヴィパッサナー瞑想 #ババジ #シュリーエム #SriM  #蓮華舎 #PadmaPublishing

山田麻子 今月のひと筆。2020年 9月

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©Asako Yamada



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【こうして 草にすわれば】

 

この夏、草にすわってみた。

 

八木重吉「草にすわれば」より

 

 

 

山田麻子公式 HP

山田麻子 手書き暦 ✳︎2021年版の受付がもう少しでスタートします。来年もお楽しみに!

 

『オン・メディテーション 』2020年10月刊行!ーSriM動画(邦訳あり)公開!なぜ瞑想するのか⑤

『ヒマラヤの師と共に』のSriMの最新作!『オン・メディテーション 現代を生きるヨーギーの瞑想問答』2020年10月発売!

「私たちはなぜ瞑想するのか⑤」

昨年のパブリックに向けた講演会の内容で、とてもわかりやすい動画になっています。本への導入としてもおすすめです。
本書はマインドフルネスや呼吸と身体、ヨガ、そして意識について余すところなく91のQ and A方式で書かれています。お楽しみに。

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<一部抜粋>

私たちの内なる本質は「サット」(実在)であるのです。

そして、私たちが生きているこの世界は、私たちの感覚器官を通して受け取った印象に基づいているにすぎないのです。

私はジェニファーを本当に見ているのでしょうか? 違います。

私たちは、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の5つの感覚を通して、私たちの心、脳−−どちらでも良いのですが−−が知覚したイメージを見ているにすぎないのです。

 

ですから、私が「世界」と翻訳しているものは、サンスクリットで言うところのナーマ、つまり「名前」と、それに名前に関連づく「形」、これをサンスクリットではルーパと言いますが、このナーマとルーパに基づいた世界のことなのです。

.....(続きは動画をご覧下さい)

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『オン・メディテーション 』刊行に向けてーSriM動画(邦訳あり)公開!なぜ瞑想するのか④

『ヒマラヤの師と共に』のSriMの最新作!『オン・メディテーション 現代を生きるヨーギーの瞑想問答』発行に向けて!

「私たちはなぜ瞑想するのか④」

昨年のパブリックに向けた講演会の内容で、とてもわかりやすい動画になっています。
本への導入として是非見ていただきたいです。
本書はマインドフルネスや呼吸と身体、ヨガ、そして意識について余すところなく88のQ and A方式で書かれています。お楽しみに。

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<一部抜粋>

ヨーギーたちは次のように言いました。

私たちの心の中に、とても静かで、私たちが追い求めている究極の幸せがある、と。そして、それは外側に見つけることはできず、翻って自分の中を見たときに内側に見つけることができる、と。

静寂がある時、そこに動き回る思考はありません。動き回る思考はなくとも、思考はあります。それは「私は在る」、以上です。

たとえ短い時間であっても、そこに触れた人は誰もが至福を体験します。それからは常に満たされた状態となるのです。

.....(続きは動画をご覧下さい)

www.youtube.com

Part1-1  https://www.youtube.com/watch?v=49rRCNrGN48

Part1-2  https://youtu.be/DgOfi9ITudo

Part1-3はこちら!https://www.youtube.com/watch?v=drrqCmMbYK0&t=142s

  

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子育てなんかできない! 第7稿 ゆっきぃ

《私は妊娠出産育児?で『あきらめる』のパワフルさを知りました。⑥

 

みなさんこんにちは。ゆっきいです。

毎日暑いですねー。

やっと夏がきた!って感じで嬉しい限りです。(私は夏が大好きなんです!)

『あきらめる』について書き始めてもう半年が経つんですね。

早いなぁ。というか、かなり引っ張りましたね。笑

ここまで止めずに読んでくださっている方、すごいです。

ありがとうございます!!

まだ読んでない方、もしよかったら最初から読んでみてくださいね。↓↓↓

子育てなんかできない!1~6稿

 

さて。

私の息子、天太さんの命日は8月8日です。

今これを書いているのが8月8日なんですが、先ほど家族みんなでお墓参りにいってきました。

毎年この日が近づくと、天太さんと過ごした日々や亡くなった日のことをぶわーっと思い出します。

そして胸がほわっと温かくなるんです。

悲しくなるわけでもなく、苦しくなるわけでもなく、痛くなるわけでもなく。

ただただほわっと温かくなるんです。

それから「あー天太さん可愛かったなぁー」「一緒にいられてよかったなー」「愛しかったなー」「今も愛しいなー」という言葉が私の口から出てくるんです。

自然に。溢れ出るように。

 

 天太の1年4ヶ月間ほどの人生の最期はとてもとても見事でした。

亡くなる1週間ほど前から体調を崩して入院をしていたので、亡くなったのは病院です。

亡くなる直前、「まだ助かる可能性は…あります。人工呼吸器を付けますか?」と先生から最後の判断を求められ、私たち夫婦は迷いながらも「付けません。」「でも苦しそうな姿が見てられなかったら付けて下さい。」と言いました。

先生は「助かる可能性はまだある。」と言っていたけれど、どう見ても人工呼吸器を付けても助かる可能性は低そうでしたし、一度人工呼吸器を付けてしまうと外すことがとても困難になるからです。

(自宅にもなかなか帰ることができなくなります。)

天太さんが苦しそうな姿は見たくない。

だけれども人口呼吸器を付けるのは嫌だという苦しい迷いでした。

(なるべく延命措置的なことはしたくなかったんです。天太さんには似合わない気がしたからです。)

 

挿管をして、酸素をMAXで流しても体内酸素量が減っていく天太さん。

体内酸素量が減らないために、手動のポンプのような機械で空気を一晩中流し続けてくれていたのは看護士さんや先生たちです。

「その手動で空気を流すのはもう止めてもいいです。そう先生と話し合いました。」

と、ポンプで空気を送ってくれていた看護士さんに伝えたときは「私は息子が死んでもいいです。」と言っているんだな…とほんの少し自分を責める気持ちが湧きました。

看護士さんは微妙な表情で「あ…はい…。」と言いながら手を止め、そっとその場を離れました。

体内酸素のパーセンテージがわかる機械の数字がゆっくり、ほんとうにゆーーっくり1%ずつ減っていくのをジッと見つめ、天太さんの様子を伺う私たち。

まったく苦しそうな表情を見せない天太さんはゆっくりと目をつぶり、とてもリラックスしているように見えました。

 

私は天太さんに「愛しているよ」「ほんとに可愛かった」「お世話ちゃんとできなかったかもしれないけど私にお世話をさせてくれてありがとう」「私たちのところにきてくれたこと感謝している」「大好きだよ」と、わんわん泣きながら存分に気持ちを伝えました。

 

体内酸素量が30%ほどになった時、先生が「よかったら抱っこしてあげてください」と言いました。

私はリラックスした様子の天太さんをそっと抱っこしてなんどもキスをしました。

ゆっくりゆっくり1%ずつ数字が減っていき、とうとう10%になった時、天太さんは大きく息を「スウーーッ!」と吸ってから「ハァッ!」と息を吐き出しました。

私はその様子を見て「え?!」と驚いたのだけれど、すぐに「あぁこれで終わりなんだ。」と感じました。

先生がライトで天太さんの瞳孔を確認して脈をとり、「ご臨終です。」と言いながら「うぅ…」と声を詰まらせて泣きました。

たくさんの先生や看護士さんが天太さんを囲み、みんなで天太さんを見送りました。

当時3歳だった娘はきょとんとした顔をしながら「天ちゃん寝てるの?」と言い、亮一さんが「天太は死んじゃったんだよ。」とほんとうのことを伝えていました。

私は「あぁ、ほんとにこれで終わったんだ…」となんだか言葉にできない気持ちでいっぱいでした。

 

今思い出してもその時のことはとても鮮明です。

あの時の病室の空気、質感、色、光の射し方、全てをありありと思い出せる。

そこに悲しみはありません。

そこにあるのは「あぁ人ってほんとに死ぬんだな」「人が死ぬ時って息を大きく吸って一気に吐き出すんだな」という体験と切なさと愛しさだけです。

そして今、思い出すと湧いてくるのは「愛してたなー」「今も愛してるなー」という想いです。

 

 

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当時3歳だった娘もこんなに大きくなりました。近所の人懐こい猫がひと際娘に懐く図。

天太さんが亡くなってから、私は一回も悲しみにくれたことがありません。

自分の息子が亡くなったのに泣き崩れることもなく、切なさを感じながらもすぐに笑って毎日を過ごしていました。

私は天太さんが亡くなった時、清々しさすら感じていたのです。

きっとこんなことを言ったら「信じられない!」「ひどい母親だ!」「愛情ってもんがないのか!」と嫌悪感を持つ方もいるでしょう。

私もほんのちょっぴりだけそこに罪悪感を感じていました。

こんなんでいいのか?と。

でもすぐに「まぁほんとのことだししょうがないか」と開き直るのです。

そしてすぐに亮一さんや娘とケラケラとふざけあうのです。

 

私がこう在れたのは天太さんが亡くなるまでの間、『あきらめる』を日常的にやっていったからでした。

亮一さんは「ゆっきぃの中に天太を愛しいという感情もある。と同時に早く解放してくれという気持ちもある。それがほんとのことなんだからそれでいいじゃん。」と言いました。

私は亮一さんのこの言葉で、これが『あきらめる』の意味だと気づいたのです。

 

 亮一さんは娘を出産した時から「出産と育児はゆっきぃに『あきらめる』を教えてくれてるね。」と言っていました。

でも、これが私にはなかなかわかりませんでした。

「あきらめる?は?あきらめちゃったらそこで終わりじゃん。」

「あきらめるなんてできないよ。だって理想は持ち続けなきゃ進めないじゃん。」

「あきらめるなんてそんな投げやりでどうすんの?」

と、かなりな反発心が湧いていたのです。

『あきらめる』をすっかり勘違いしていたからです。

 

『あきらめる』とは投げやりなことでもなんでもなく、ただただ『明らかに』『観る』こと。

そこに湧く感情も、反発も、憤りも、悲しみも、怒りも、ただただ『明らかに』『観て』いく。

 

「もういーよ!どうせ私の人生こんなもんだもん。もう諦める!」って感じのイメージが湧きません?『あきらめる』って。

なんだかネガティブな拗ねてるイメージが湧きませんか?

そうではなく、ジッと静かに『明らかに』『観る』が『あきらめる』。

 

天太さんを愛しいと感じているけれど、「早く死んじゃってくれよぉ~」という想いも湧いてしまうのが事実。

そこを排除しようとするのではなく、それをなかったことにしようとするでもなく、「そんなこと思うなんてひどい母親だ!母親失格だ!最低な人間だ!」と罪悪感から自分を責めてごまかすのではなく、罪悪感すらジッと静かに今起こっていることを正直に明らかに観る。

これを時に亮一さんの力を借りてやり続けました。

もちろん感情やストーリーに巻き込まれることも未だに多々あります。

でもそこをまた明らかに観ていくのです。

 

 娘を叱りたくなる時、コントロールしたくなる時、亮一さんに対して怒りが湧くとき、イライラが募る時、自分を叱責したくなる時、誰かに対して意見を言いたくなる時、どんな時もそれをジッと『明らかに』『観る』。

あきらめる。

すると何が起こると思いますか?

そのときグッと湧いた感情や衝動がスッと溶けて流れていってしまうのです。

(あ、もちろんすぐに流れない時もあるんですよ。私もまだまだあきらめが悪いところがありますから。笑)

そして人生というのは、瞬間瞬間何かがただ起こっては消えていくだけなんだということが体験としてわかるのです。

そこにどんな感情をのせるのか、どんな意味付けをするのか、選ぶことができるとわかるんです。(実際は選べてないかいないのでしょうけれど。)

 

 私にはまだまだ観念がたくさんあります。

モノゴトを最初から色を付けて観てしまいます。

ほんとうはまっさらに観たいのに、それがなかなか難しいということをあきらめようとしています。

『明らか』に『観よう』としています。

私にとって子育てと結婚生活は『あきらめる』の練習にはもってこいの体験です。

まだまだあきらめきれていない出来事が毎日のようにやってくるから。

天太さんはとことんあきらめの悪い私にガツンと見せてくれました。

現在9歳の娘はゆるゆるとずっと私にあきらめるを気付かせてくれています。

夫の亮一さんは時に同志として、時には師のように『あきらめる』を私に示してくれます。

 

 『明らかに』『観る』はとてもパワフルです。

“私”という存在はどこまでも広がっていて、そしてどこにもいないことが体験できるからです。

いかに“私”という存在を普段狭めているかがわかるからです。

 

私は『あきらめる』を知って、子育てなんかできなくなりました。

“育てる人”も“育てられる人”もどこにも存在しない。

ただそこに愛しさがあるだけで、それがとてつもなく幸福であることがなんとなくわかったからです。

 

でもまだまだ迷います。

まだまだ巻き込まれます。

どうでもいいことを狭く小さな『個の私』という思い込みの枠内でぐるぐるとさまよう時間があります。

だからこれからもあきらめつづけようと思います。

そのたびにあきらめようと思います。

そして広がり、また収縮して、そしてまた広がっていきたいと思っています。

 

長々と続けてしまったこの『あきらめるシリーズ』。

読んでくださってありがとうございます。

「子育てなんかできない!」というタイトルを舎長のおーちゃんがつけてくれた時、どうしてもこれは書きたい!と思ってしまいました。

現在の私の長い長い自己紹介です。

私は最愛の夫と最愛の娘と大好きな義母とめちゃくちゃ可愛い二匹の猫とのんびりと、時に焦り、時に不安にかられながらも『あきらめ続けて』生活しています。

亡くなってしまった心から愛する息子天太のことを時に思い出しながら。

 

来月からは何を書こうかな。

今から楽しみです。

よかったらまたお付き合いくださいね。

ではまた!

 

【舎長おーちゃんが行く!⑦】宝物のようなサバイバルツール。

長らく放置している、オーちゃんが行くシリーズ。。。

全然書けずにおりました。

 

毎日書くといいとか

その際はキーワードを入れるといいとか

SNSを駆使すべしだったり

ネットのあれこれを使うといいとか....

いろいろあるみたいですが^^; はっきり言って全然手が回っておりません。

 

会社を会社として成り立たせてちゃんと運営させていくことについて

ど素人の私にとっては、

いろいろと難しいことや元々苦手なことがたくさんあります。

意見のすり合わせやお金の計算などにもいちいち頭を抱えます。

はっきり言ってめんどくさいことだらけではありますし

なんでこんなこと始めちゃったのかなと悶々とすることも多々有ります。

でも、もうすぐ会社を始めて1年になります。

 

1年前の今頃は、契約を破棄された本の原稿をひっさげて、

インドまで行って著者に契約を取り付け、日本に戻ってきたところでした。

な〜んにも持ってない身軽だったあの頃に戻りたいよぉ〜!!と

ちょっとだけ(いやかなり)思ってブルーになっていましたが...

時の流れは早し!

あの頃とは全然違う環境に身を置いていて、

こんなでも今の自分の方が断然好きです。

 

先日実情を知らない方にお会いした時に、

蓮華舎には10人くらい社員がいるのかと思った!!

と言われてこちらがびっくりしましたが、そりゃそうですよね。

「会社」というのは、そういうものでしょう。

しかし!実情は、ほぼ舎長オーちゃん(つまり私)1人で運営しています。

でも、手助けをしてくださる方がたくさんいて

ジタバタしながらもなんとかやってこれています。

ありがたいことです。

 

現在は、SriMの次作、オン・メディテーションの発売のための

最後の原稿チェックと外装を整えるのと同時に

本を作るための資金の確保をなんとかしようと思っているところです。

コロナの状況を見ながらですが、

秋前にはみなさんにお届けできたらなと思っています。

動画も配信始めたので、ぜひご覧くださいね。

 

そして、次に、まだまだ知られざる研究である

「音と形ーフォノグラム」の世界を世に出すプロジェクトも進行中。

今せっせと原稿を整えています。

https://www.youtube.com/watch?v=BDe9bopUIa8

(おにょtv特別配信最終回!面白かったと大変評判のこちら⇧もぜひ!)

 

先日は、京都で、ルン・ルの会を主催する植原紘治先生と、

フォノグラムの小野田さんと一緒にお話しをする時間を持つことができました。

楽しくて、深かったな〜

 

ルン・ル一筋数十年の植原先生については

巨きすぎてここに書くことはできませんが、

先生がひとたび息を吐くと、風が巻き起こり、渦を巻き、

その中心から太古の響きが現れます。

体験すれば、わかっていただけると思う。

ルン・ルの響きは、日本の、世界に(宇宙に)誇る宝物です。

よかったら、こんな本と、こんな動画もオススメです。

 

 

そして、音と形、そして人間の意識について探求し続けている

小野田さんとの面会は、深いところで

とても重要な意味のあるものだったと確信しています。

 

結局のところ、未知のものに出会うためには

自分の存在でもって飛び込んでいくしかないのだと思います。

難しく思えても、よくわからなくても、とにかく体験するしかない。

そして...

これからは、目に見えることと同じように

見えないことも大事にしながら進んでいくことが

誰にとっても大切になってくるのではないかなと思っています。

 

目に見えることは、本当にわずかです。

私たちは、見えるものと同様に、見えないものを感知しながら、

自分の感覚と、衝動と、良心とに従って、

この現実世界を泳いでいかなければなりません。

 

特に大都市にあっては、コンクリートジャングルですが、

その合間にあっても野生の感覚をせっせと磨きながら

生き抜いていけたら、結構なサバイバルではないでしょうか?

サバイバルには道具が要ります。

 

蓮華舎は、そんな今生のサバイバルに必要な

宝物のような最終兵器(!)をこれでもかと届けて行こうと思っています。

この兵器は生きる喜びを蘇らせてくれる、とっておきなのです。

ぜひ!一緒に目撃しながら楽しんでくださいね。

 

それでは!!

 

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左、小野田さん。右、植原先生。舎長やつれていると評判の写真ですが元気です。