《今更ですが子育てってなんですか?》
こんにちは!ゆっきぃです。
もうすっかり朝晩の風や日中の日差しが『秋!』ですね。
夏が大好きな私としては毎年この時期がとても寂しいです。
みなさんはどうですか?
でもなんですかね、歳ですかね。
「秋もいいもんだなぁ…。」なんて思い始めちゃったりしています。
さて。
前回で『あきらめる』について書き切ってしまった私は「はて?今回は何を書こうか?」と首を捻っています。
あれは絶対に書きたかったものなので、すこぉしだけやり切った感がありまして。
(「少しだけやり切った感がある」って変な日本語だな。)
前回のお話しにも書きましたが、あれが私の長い自己紹介です。
いつも、いつだってあれをベースに生きています。
いつだって「明らか」に「観て」いきたい。
あきらめていたい。
これが私のベースです。
(なかなか難しいのですけれど。)
『あきらめるシリーズ』をまだ読んでいないという方はこちらをぜひどうぞ。↓↓↓
かつての私は「いい女になろう!なりたい!」や「いい奥さんになろう!なりたいんだ!」、そして「いい母親になろう!ならなければ!」といつも意気込んでいました。
素の自分のことが大大大大嫌いな時期が長かったためです。(今も心から『大好き!!』とは言えませんが。未だにあきらめが悪いっす。笑)
いい女になろう!いい奥さんになろう!良い母親になろう!はどこか前向きな感じがして、良いことをしているような錯覚に陥ります。
『努力をしている素晴らしい前向きな人』と見られることもあるでしょうし、そんなイメージがありませんか?
私はどこかでそんな風に感じていました。だからいいことをしているんだ!と。
(書いていて恥ずかしいです…。)
ですが。
ですが!です。↓↓
「いい女になろう!なりたい!」は、言い換えると「今はまったくいい女ではない!こんな私はダメだ!」です。
「いい奥さんになろう!なりたいんだ!」は「今は全然ダメだ!こんなんではダメだ!」です。
「良い母親になろう!ならなければ!」は「このままではまったくひどい母親だ!この子のためにならない!ダメだ!」です。
なんということでしょう。
私は無意識にこんなことを繰り返していたのです。
この『無意識に』がとても怖い。
だっていいことをしているような気になっているんですから。無意識に。(怖い!!)
私は私に毎日しこたまダメ出しをしていたのです。
これでもか!と言わんばかりに。
無自覚、無意識に。
「いい母親になろう。いや、ならなければ!」って思いません?
子どもができたら割とみんな思うんじゃないかな。
だって目の前にいる我が子はめちゃくちゃ可愛いですから。
その前にあった「いい奥さんになろう!」「いい女になろう!」すら忘れてしまうくらい思うんじゃないでしょうか。
私はある日、愕然としました。
私は私のもっている「良い母親像」に自分を当てはめようとしていることに気付いたからです。
私は私のもっている「いい女像」「いい奥さん像」「良い母親像」にいつもいつも自分を当てはめようとしていたことに気付いたからです。
私の思っている「良い母親」が誰にとってどう「良い母親」なのかもわからないのに。
そもそも「良い母親像」がいつ創られたかもわからないのに。
それに私の持っている「良い母親像」が目の前のこの子にとっての「良い母親」なのかどうかもわからないのに。
私は私の頭の中にいる「良い母親像」をちゃんと観て、それからきょろきょろと探しました。
「え?そんな人どこにいる?そんな母親どこにいますか?」と。
お料理は完璧。
いつも朗らかで明るい。
家事はいつもばっちり。
家計をうまくやりくりしている。
旦那さんをいつも立てている。
質素倹約。
無駄使いはしない。
いつも優しい。
いつだって子どもと旦那さん優先。
でもいつも身綺麗で美しい。
私がもっていた「良い母親像」はこれでした。
昭和感ヤバい。笑
モデルのベースは私の母親でした。(←お決まりのパターン。)(しかも実際の母親はこんなに完ぺきな人ではありません。あくまでもベースです。)
これがあまりにも私とかけ離れすぎていてとても苦しかったのです。
当たり前ですよね。
どこにもいない、頭の中だけにいるこの女性になろうとしていたのですから。
私はこれに気付いた時に「こんなの止めよう!」と思いました。
そんなのおかしいじゃん!と思ったし、とても窮屈に感じていたからです。
でも、止めようと思ってもなかなか止められていない自分に出会いました。
ふとやってしまう行為、何気なく言ってしまう言葉、それらにびっしりとその思い込みがこびりついているのです。
ほんとは今やりたくない家事なのに「いいよ、私がやるから。」という私。
何もわかっちゃいないのに「子どもにはこのくらいの躾はちゃんとしなければね。」とママ友さんたちと話す私。
「子どもを○○時までには寝かしつけなきゃ。そうじゃなきゃ子供にとってよくないから。」と頑なに時間を守ろうとする私。
自分の体調が悪かろうがちゃんと身体に良い食事を毎回毎回必死に作ろうとしている私。
もう全てが自分の持っている「良い母親像」に合わせた言葉や行動でした。
いくらそれをもう止めよう!と決意しても、ずっと無意識にやっていた行為を止めることはできないことを知りました。
だから私は「まず気付こう。」としました。
そして自分が言っている言葉、やっている行為に疑問を持とうとしました。
それはどこから言っている?
それはどうしてやった行為?
それほんとう?
と。
今でもそれを続けています。
どこまでも続くこの強固な『思い込み』を壊したいからです。
どこまでものびのびと生きたいからです。
私は誰だろう?どこにいるんだろう?を知りたいからです。
そうしたらわからなくなりました。
『子育て』ってなんですか?
私がどこにいて、何がどうなって今これを思っているかもよくわからないのに、私が誰かを育てることなんてできるのでしょうか。
結婚してすぐの頃、私は母親の前でこう呟きました。
「子どもは…欲しいとは思ってるんだよねぇ…。」と。
子どもを産む自身も育てる自信もまるでありませんでしたが、元々子どもが大好きだったのでそう呟いたのです。
私の母親はその言葉を聞いてこんな言葉を口にしました。
「子どもは可愛いわよぉ!でもね、可愛いだけじゃ育てられないからねぇ。」
これ、よく聞く言葉じゃありませんか?
私は母親のその言葉を聞いて「そうだよなぁ。」となんとなく納得してしまい、そして怖気づきました。
そんな大層なこと私にはできない、と。
でも今現在、9歳になった娘がいる私はこう思っています。
「可愛いだけでも育つよ。」と。
夫の亮一さんはよくこんなことを言います。
「家族ってチームみたいなもんだね。」と。
『生きる』ってどういうことだろうね?と模索し合うチームだと。
そしてどうせなら『楽しく幸せに』生きるってどういうことだろうね?を模索したいよね。と。
父親という肩書『も』持ちながら、母親という肩書『も』持ちながら、娘という肩書『も』持ちながら、一緒に暮らして「楽しく幸せな人生を生きる」もしくは「生きる」とはどういうことだろうね?とお互い模索し合うチーム。
素敵じゃないですか?
亮一さんと私と娘はチームメイトです。
親と娘という肩書はありますが、これはただの肩書です。
対等だと思っています。
私は彼女を尊敬しているし、尊重もしたい。
応援もしたいし、もし助けが必要なら全力で助けたい。
でも私も応援してくれたら嬉しいし、助けてもらいたいときは正直に「助けて!」と言いたい。
さて。
子育ってってなんでしょう?
私にはわからないし、できません。
良い母親にもなれません。
でも毎日がとてものびのびしていて以前よりはずっとずっと楽です。。
娘がある日こんなことを言いました。
「ママは変わってるよね。お友達も言うよ。○○ちゃんのママって変わってて面白いね!って。」
私は「へー!どこが?」と聞きました。
娘はちょっと考えながら「なんか…親らしくないっていうか…とにかく面白いよ!」と言った後、こう続けました。
「○○ちゃんは大きくなったらママみたいなママになりたいよ!」
…順調に変わった娘に育っているようです。笑
私は“子育て”なんてした覚えがないのに。
これが正解かなんてわかりません。
これでいいのかな…?と思うこともしばしばあります。
でもいつだってここに立ち返ります。↓↓
みんな何にもわからないまま生きているんだね。
『生きる』の正解がわからないんだからね。
だったら少しでも楽しく生きたほうがいいと思わない?
はて?
ところで楽しいってなんだろうね?
探しながらいこっか!一緒に。
ママもよくわからないし、パパもよくわからないまま生きているから間違えることもたくさんあるけれどさ。
一緒に泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり憤ったりしながら、よかったら一緒に行こうか!
一緒の方がきっと勇気も出るし、もし失敗しても笑えるよ。
とりあえずよかったら一緒に探してみない?
ママもパパも探しているんだ。
探してる最中もきっと楽しいね。
今日も私は相変わらず子育てができません。
仕方ないね!あははは!
もう笑っちゃおう!
今月も読んでくれてありがとうございます。
来月は何を書こうかな。
よかったらまた読んでみて下さいね。
ではまた。