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子育てなんかできない! 第12稿 《今さらですが子育てってなんですか?⑤》ゆっきぃ

子育てなんかできない!第12稿

《今さらですが子育てって何ですか?⑤》

 

『心配しないっていう方向性もあるんだよ。2』

 

みなさまこんにちは!

お久しぶりです。ゆっきぃです。

もう12月?!!!

私は「このお役目はいつまでやらせていただけるのだろう?」とお役目終了の日が来ないことを祈りながら、娘にこっそりとなるべく自然に質問を重ねています。

 

「ねぇねぇ。今年はサンタさんに何をお願いするの?」

 

どんな物をお願いするのか、年々ドキドキしながら質問をするのもいいものです。

 

娘がお願いするものは手に入るものだろうか…?

(限定品とかレアものだったらどうしよう…ってやつですね。)

ものすっごい高いものお願いするって言われたらどうしよう…。

「サンタさんってほんとは親なんでしょ?」とか冷めた目で言われたら…。

 

そんな“心配”を頭の片隅で考えながら、なるべく自然な流れで質問をするのです。

幸福をじんわりと感じながら。

 

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家の可愛い2人。ハルくん(♂4歳)と夏さん(♀4歳)。仲良し。

 ここまで書いて、ちょっと思い出したエピソードがあったので書かせてくださいね。

私は小学校、中学校、高校とずっと演劇部に所属していたのですが(芝居好きだったのですよ。今も好きです。)、中学生の時にハマっていたのが『キャラメルボックス』という劇団です。

中学2年生の時、キャラメルボックスの代表作ともいうべき『不思議なクリスマスのつくりかた』というお芝居に演劇部の顧問の先生が連れて行ってくれました。

その舞台に大感動した私は、貯めていたお金で戯曲(脚本)を購入したのですが、その脚本の裏表紙だったかどこだかにこんな言葉が書いてありました。

 

『誰だって誰かのサンタクロースになれるんだ』

『僕をサンタクロースにならせてくれて、ありがとう』

 

(言葉自体はうろ覚えなのでもしかしたらこんな言葉ではなかったかもしれません。でもこんな感じだった記憶です。)

中学生の頃の私はそれを見てなんだかものすごく驚いて、その言葉に目が釘付けになったのでした。

 

私はそれから誰かにクリスマスプレゼントを贈るたびに心の中で「私は今この人のサンタクロースなのだ。むふふ。ありがとう。」と密かに思っていたりします。

(恥ずかしいので口に出して言いませんが。今書いてしまっているけれど。笑)

 

もしこれから時がたち、娘に「サンタさんってほんとはいないんでしょ?」なんて言われたら、どんなにバカらしく聞こえようとこう答えようと思っています。

 

「いるよ。だってパパとママがサンタさんになったんだから。サンタクロースにならせてくれてありがとう。ママはこれからもサンタにも(なんにでも)なるつもりだよ。」

 

むふふふ。

どうです?

アホらしいですか?

 

私は中学生の頃からずっと心の中でひっそりとそう思っています。

それだけで嬉しくなりますし、幸福な気持ちになりますから。

 

これは私が地獄の底を泥まみれで這いずり回るような生活をおくっていた時にも、根底にそこはかとなくずーっとあった想いでした。

(15歳くらいから29歳くらいまで私の人生はぐっちゃぐちゃのドロドロでした。自死を何度も何度も考えましたよ。ほんとにねぇ。)

 

地獄の底を泥まみれで這いずり回り、自分をとことん嫌い、幸福なんて私には一生やってくるはずがないと強く思っていた私の根底にこんな想いがずっと流れていた。

 

不思議じゃないですか?

 

不幸のどん底にいると心の底から思っているのに、その一方で誰かのサンタさんになれる幸福を感じていた自分もずっとひっそりといたなんて。

 

私は信じ込んでいただけなんですね。

 

どん底で泥まみれで這いつくばって自分をとことん嫌いで、自分に幸福なんて訪れるわけがないと。

「信じ込んでいる」という自覚がないままに。

 

ひっそりと根底に流れるその想いは、あまりにもひっそりしすぎていてなかなか気付かないのです。

 

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家のベランダから観た素敵な夕焼け。綺麗だね。

 『幸せ』とか『幸福』とか『安心』とかって、誰もが望むものだと思います。

人間として生まれた人誰もが願ってやまないものではないでしょうか。

(違う人もいるのかなぁ。)

 

でもそれはとても微細で、いつもそこにありすぎて、気づきにくいものなのだと感じます。

 

不安や心配や恐怖心の方が派手でわかりやすかったりするものですから、ついそちらへ意識が強くいってしまうものなのだと思うのです。

 

私も未だにその方向性へ行ってしまう時があります。

不安で仕方がなくなったり、恐怖心で足がすくんだり、すぐに安定を望んだり。

そんなことはしょっちゅうあります。

ですがどんどんそこにいる時間が短くなっています。

「心配しない方向性」をすぐに選びなおせるようになっています。

 

私は恐怖心を感じたときは「あーーー!!怖い!!怖い怖い怖いーーー!!」と本気で地団駄を踏みます。

ほんっきの本気でバタバタと怖さを体験します。笑

 

悪態をつく時もしょっちゅうあります。

「ふざけんなよぉーー!!ちっくしょーーー!!!」と肚の底から悪態をつきます。

誰に悪態をつくかって?

それは「神様に」ですよ。笑

バチあたりだと思います?

いいんです。

私は神様と対等な立場だと思っていますから。

 

さて、この時に少しだけ“気付く”コツがあります。

何に気付くかって?

その微細で気付きにくい“それ”にです。

私は地団駄を踏むときも、悪態をつくときも、そんな自分を必ず観察しています。

 

本気で地団駄を踏んでいても、心の底から悪態をついていても、そんな自分を観ている視点をつくるのです。いや、その視点に気づくのです。

もし“視点”がわかりにくかったら、自分の身体の反応がどうなっているか“感じて”みる。

 

その視点、その感じようとしている“それ”。

それはなんでしょう?

どうして自分を観ることができるのでしょう。

感じようとすることができるのでしょう。

 

そのうち気付く時がきます。

 

“それ”はずっと私とともにあったんだ、と。

 

目の前で何が起こっていようとも、どんなに私が不安になっていようとも、怖がっていようとも、嘆いていようとも、“それ”“その視点”はずーーーっとそこに共にあったんだ、と。

 

その視点から観ると、

『楽しい』『嬉しい』『面白い』と感じている時も、『悲しい』『悔しい』『苦しい』『怖い』と感じている時も、どれも質感が違うけれどただの“刺激”や“反応”だということがわかってきます。

 

この身体を持っているからこそ感じられる、この“私”という感覚があるからこそ感じられる“反応”であり“刺激”だと。

 

心配や不安はなくなることはありません。

この“私”という“個人感”がありつづける以上、なくなることはありません。

だけれども、視点と感覚をとりもどすと『心配』や『不安』はただの反応に変わります。

 

嫌だけれど嫌じゃない。

(いや、嫌なんですよ。笑)

排除したいと思ってしまうけれど、排除しなくても一緒にいられるようになります。

排除したくなることもただの(素敵な)反応ですから。

 

 

さて、ここで落ち着いてじっくり考えてみてほしいことがあります。

これはじっくりゆっくりぜひ考えてみてもらいたことなのですが、

 

この世の中のことで「わかっていること」って何かありますか?

あなたが「わかっている」と思っていることって何かありますか?

 

どうして胃に胃液が出てくるのでしょう?

(「消化の為です。」とかそういう答えが聞きたいわけではありませんよ。笑)

心臓は誰が動かしているのでしょうか?

腸の蠕動運動って(自分で)したことありますか?

肝臓で血液が造られるそうですが、見たことあります?

その造られているところを。

それは一体どうして起こっているのでしょうか。

 

月ってほんとはどれくらいの距離なんですかね?

ほんとに存在しているのでしょうか?

だって実際に知らないですよね?

その距離を知っているとしたらそれは“ただの誰かが言った知識”ですよね。

行ったことないですもん。私は。

 

屁理屈を言いたいんじゃないんです。

今一度よーーく考えましょうよ、という“お誘い”です。

 

自分で心臓を意図的に動かすことすらできないのに、どうして思い煩うのでしょう。

 

知識を詰め込むことは簡単です。

それで“わかった気になる”のも簡単です。

 

この世の中にある研究結果や先人たちが必死で解明しようとしてわかったことは尊いものです。

エビデンスだって一つの重要な指針です。

それを創り上げた先人の方たちに心からの敬意をはらいます。

 

でもね、「自分は何もわかっちゃいないんだ」と認めることもとっても重要な『幸福に生きる』コツなのではないか?と思うのです。

エビデンスだって私が実際とったわけではありませんから。

それを採用するかしないかは自分で選ぶ、ということですね。)

 

何もわかっちゃいない私が心配するなんてどういうこと?

それに心配できるほど私はなんにも知らないしわかっちゃいない。

 

心配して思い煩っていた私が↑ここに立ち返るとただただおかしくて滑稽で笑えてくるのです。

 

「なに?!私コントやってるの?!ぶはははは!」

 

と。

 

それでも『心配』は起こります。

『不安』は立ち上がります。

なくなることはありません。

 

その時に何度も何度も気づく。

その『心配』を排除することなく、共にある。

ただの(とっても尊い)刺激で反応ですから。

 

よく人は「この心配事がなくなったら幸せになれるんだ!」と思いがちです。

私もそう思ってしまう時があります。(未熟者だ…)

 

排除をしようとした時、そこに不幸は訪れる。

ただそれを見つめた時、そこに幸福が立ち上がる。

 

これはかの有名な「ゆっきぃ禅師」が言った格言です。ぶはは。

 

 

ところで、子育てって誰がやっているんですかね?

私、そんなことやった覚えないですし、できません。

だって(意図的に)胃液を分泌したことすらないんですもの。

 

『心配』は起こるもの。

そして私はただそれを見つめて感じてみるだけ。

 

なくならないなら観てみない?

またすぐにやってくるなら感じてみない?

どうせ何にもわかんないまま生きてるんだもの。

 

さてさて。

今世の中が大騒ぎ(のよう)ですね。

いろんなことが起こっているみたいです。どうやら。

変換の時、転換の時には不安や恐怖や心配は付き物です。

変化って怖いですもんね。

 

恐怖も不安も心配も付き合い方を知っちゃえばなんとかなる。

目の前に起こることがグルグルと目まぐるしく感じても、“それ”はいつもそこにある。

気付けるか気付けないか、ただそれだけ。

 

まぁ実際の私は毎日毎日ギャーギャーうるさく過ごしていますがね。笑

そんなものです。

 

さー!

次回でこの連載も最終回です。

あと残り1回。

よかったら次回もお付き合いくださいね。

今回も最後まで読んでくださってありがとうございます!

この記事がどなたかの役にたてばいいなと思っています。

ではまた。

来月までどうかお元気でいて下さいね。