蓮華舎のブログ。

出版社 蓮華舎のブログです。新刊のこと、著者のお話、寄稿、取材記、舎長の日誌など。

太陽の光が鏡によって反射するように、我々という存在は絶対者を反映する鏡です。(10/20 発売『恩寵の力』 より)

『恩寵の力ー必然性に導かれた人生の答え』岩城和平(著)2021/10/20発売!

目次はこちら
著者のご紹介はこちら

 

本文内容のご紹介その②です。どうぞご一読下さい。

 

第一部 みこころと共に「私自身のこと」より

 

絶対者のみが存在し、行為者であり、世界はそれによって支配され機能しています。

我々はその絶対者の反映であり、太陽の光が鏡によって反射するように、我々という存在は絶対者を反映する鏡なのです。

我々は無に等しくとも、その絶対者の輝きを自ずから反映させる存在としてここに存在しているわけです。

 

いまだその鏡が曇っているがために、太陽を完璧には反映できずにいる人からすると、この事実を喜びとして感じられないかもしれません。

しかし、どんな鏡でも磨けば必ず光るのです。誰もが絶対者の反映物としての自己を理解するならば、喜びに満たされるはずです。

 

本のご紹介はこちら 恩寵の力 一必然性に導かれた人生の答え - 出版社 蓮華舎 (padmapublishing.jp)

岩城和平先生HP Top | 岩城和平 Life is harmony (waheii.org)

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『恩寵の力』著者 岩城和平先生のご紹介

『恩寵の力ー必然性に導かれた人生の答え』岩城和平(著)

2021/10/20発売!

岩城 和平先生はその穏やかな印象とは裏腹に幼い頃の臨死体験によって神秘の世界に目覚め10代でインドへ単身で渡り縁に導かれて高僧・活仏に師事するなど劇的な人生を歩まれてきました。

日本に帰国し、最終的な結論に至るまでの紆余曲折もこの本には自伝形式で描かれており、たいへん面白く、読み応えのあるものになっています。ぜひ、ご期待下さい。

試し読みはこちら

 

岩城 和平(いわき・わへい)

1965年東京生まれ。俳優の両親の元に長男として生まれる。

ベトナム戦争のまっただ中、反戦運動をしていた両親が、世界平和の願いを込めて"和平"という名前をつける。幼少期より度重なる臨死体験とその体験よりもたらされた感覚によって、神秘の世界に目覚める。

8歳のときに弥勒菩薩との遭遇により歩むべき道を確信し、13歳からはキリストを愛し、日々祈りの中で過ごす。15歳でヨーガと出会う。この頃、平和運動、教育、環境問題と関わり、17歳で人生のテーマは平和の実現だとわかる。

自分の中の宗教的感性によってインドへと導かれ、ビハール・スクール・オブ・ヨーガ主宰、スワミ・サッテャーナンダ師の弟子となり、21歳までヨーガの修行をする。師の助言に従い仏教の勉強を始め、しばらく師を探す旅をする。

のち、チベット仏教サキャ派の法王であるサキャ・ティチン師と出会い、師の元で修行が始まる。

26歳からは、運命的な出会いを通して、チベット仏教四大ラマの一人であるニンマ派最高峰の生き仏、ミンリン・ティチェン師の弟子となり、ゾクチェンやその他の教えを学ぶ。

師から、自分の役目は日本にあると言われ日本に帰国。29歳から日本での本格的な生活が始まる。

35歳のときに恩寵により人生における疑問のすべてが解消し、以来、自らの人生での経験や理解を通して得られた知識を教える日々を過ごしている。

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絶対的な視点を獲得すると、すべてが本当に愛おしくすべてが綺麗です。(10/20 発売『恩寵の力』 より)

『恩寵の力ー必然性に導かれた人生の答え』岩城和平(著)2021/10/20発売!

第二部 講話と問答「Ⅰ自己を探求する」より

 

わかる前よりも後の方が面白く感じられることがあります。

 

かつては観念を通して世界を見ていたので、様々なことに苦しめられていたとしても、それは「ぼかし」がかかったような苦しみです。

ところが、わかった後に見える苦しみというのは、ものすごく鮮やかで、はっきりとしていて、クリアーです。このマーヤの世界の美しさゆえに苦しみがあるのですが、わかる前は、早くそれを取り除きたいと思ってしまいます。

しかし、いったんわかった意識を獲得すると、それが自分のすべてという状態になるので、苦しみや妬み、嫉妬が自分の中に仮にあったとしても、それが自分の頂点に君臨するようなことはありません。

 

結局、すべてが自分の「わかった状態」になるための支柱になっているのです。それらは、どうでもよいどころか、ありがたいことなのです。私という存在をこの世にあらしめてくれている要素の一つですから。

絶対的な視点を獲得すると、後はすべてただ可愛いだけ。すべてが本当に愛おしく、すべてが綺麗です。

 

 

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『恩寵の力』岩城和平(著)2021年10月発売!(目次のご紹介)

【 蓮華舎 新刊のお知らせ 】

人生には答えがあり、世界には意味がある。

あなたに見出されてはじめて、それは真実となる。

 

スワミ・サッテャーナンダ、サキャ・ティチェン、ミンリン・ティチェンをはじめ、インド・チベットの高僧・活仏たちに愛されるも、日本での役割を果たすために帰国した著者、岩城和平の半生と20年以上にわたる教えをはじめて公開する、比類なき愛の書。

2021年10月20日発売

『恩寵の力ー必然性に導かれた人生の答え』  岩城 和平(著) 

定価:2,800円+税   

ご予約受付開始しました! 発送開始10月初中旬(※一般書店発売は10/ 20)

これから少しずつ本書の紹介をしていきますので、お楽しみに。

書誌情報・詳細は下記をご覧ください。

恩寵の力 一必然性に導かれた人生の答え - 出版社 蓮華舎 (padmapublishing.jp)

 

「目次」のご紹介

はじめに

第一部 みこころと共に
 私自身のこと
 術語解説
   神
   一元的神、二元的神
   みこころ
   恩寵
   マーヤ
   悟り
   魔境
   導師
   もうひとりのグル
   宗教

第二部 講話と問答
 I  自己を探究する
 II マーヤという認識を持つ
 III 恩寵とみこころ
 IV 神と悟り
 Ⅴ 愛

編集者覚え書き

 

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恩寵の力ー必然性に導かれた人生の答え

子育てなんかできない! 最終稿 《今さらですが子育てってなんですか?⑥》ゆっきぃ

子育てなんかできない!最終稿《今さらですが子育てって何ですか?⑥》

 

『心配をそのままそっと置いておくこともできるんだよ。』

 

みなさんこんにちは!ゆっきぃです。

とうとうこの連載の最終回がやってきてしまいました。

うぅ…寂しい…

 

今回は(も?)少し長くなってしまいましたが、どうか最後までお付き合いください。

 

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いつぞやの藤山家のベランダからの夕焼け。めっちゃ綺麗。

 

ちょうど一年前くらいに蓮華舎の舎長、おーちゃんに「暇ならなんか書いてみる?」とお誘いを受けました。

(その当時は『暇に慣れる』というミッションを自分に課せていました…。今は『楽しく忙しくなる』が私のミッション。)

 

私の夢の中の1つに『原稿依頼を受ける』というものがあったのですが、おーちゃんのお陰でそれが叶いました。

なので今後の夢としては『原稿依頼を断らなければならないほど受ける』に設定しなおしています。

 

この蓮華舎さんでの連載を始めるにあたり、おーちゃんは少し葛藤したようです。

なにせ私は「過去にソープ嬢だった」わけですから。

そんな私が子育てのことを綴る。

しかも娘とのエピソードを交えて。

蓮華舎さんという公の場でそれを語るのを「いいよ!」と言ってしまっていいのか。

娘に与える影響はどんなものなのか。

もしいじめられでもしたら、それに加担したことになるのではないか。

そんな諸々のことをたくさん考え、悩み、その上で私に原稿を書かせてくれたのです。(おーちゃんは素晴らしい。)

 

私は私の過去になんの悔いもないし、微塵も恥ずかしいと思っていないのですが、娘や娘を取り巻く“世間”というものがどんな反応をするのかはわかりません。

「過去にソープ嬢だった」ということが人にどれだけのことを思わせるのかが私にはまるでわからないのです。

それに加え、娘がこれから大きくなるにつれて、この私の過去を知った時にどんな思いをするかなんて全くわからないのです。

 

娘はまだ9歳です。

私は私の過去を一ミリもごまかすつもりもなく、黙っているつもりもないのですが、今説明をしてもまだよくわからないと思いあえて言っていません。

 

私のあの過去を知ったら、

思春期を迎えた娘はもしかしたら私を軽蔑するかもしれません。

もしかしたら私を毛嫌いするかもしれません。

 

その時きっと私は悲しい思いをするのでしょうが、それでいいと思います。

むしろそんな時がきたら私はどうなってしまうんだろう?と少し楽しみな自分がいます。(そんなことになったら嫌は嫌なんですよ。)

 

私は私の過去を否定しない。

私は私を否定しない。

否定してしまったとしたら「否定したなぁ」と観て、それを否定しない。

何が起ころうが、じっくり観て、がっつり感じる。

悲しみも苦しみも憤りも辛さも。

 

私が娘にしてあげられることなんて何もないと思っているのですが、もしあるとしたら上記のことを全身で受け止め、感じようとしている姿をみせることぐらいです。

 

 

心配する気持ちは常にやってきます。

私にも心配する感情は未だに常にやってきます。(しょっちゅうね。)

 

これから私たちはどうなっていくんだろう?

仕事は?

お金は?

人間関係は?

親の介護は?

子どもの行く末は?

夫婦関係は?

 

このままうまくやっていけるのだろうか?

もしうまくやっていけなくなったらどうなってしまうのだろう?

 

これら全て、当たり前のように湧く感情です。

 

この『心配』って何に対してだと思います?

 

これね、『死』にたいする恐怖から湧く『心配』なんですよね。

 

お金のことも夫婦間のことも仕事のことも子供に対する心配ですらも、実は『死』にたいする恐怖から湧く感情なんです。

 

「死にたくない」「よりよく生きたい」とみんなが当たり前のように感じている。

だからあらゆる『心配』が湧き上がる。

 

人間を創ったのはどなたなのでしょうかね。

ほんとによくできてるなぁといつも思います。

だってみんながみんな、ほぼほぼの人が「死にたくない」って思うんですよ。

そして生きていれば勝手に「成長」「変化」するんです。

すごくないですか?

 

この最後の章はこれまで「心配しない方向性もあるんだよ。」というタイトルで書いてきましたが、最後の最後に訂正です。すんません。

私が伝えたいことはこちらです。

 

『心配』をそのままそっと置いておくこともできるんだよ。

 

さっきも書いたように、『心配』は常にやってきます。

『心配』は常に立ち上がります。

 

それが人間として生きているなら普通のことです。

だって『死なないようにする』というのが人間の最大のミッションなんですから。

 

でも面白いことがあるんです。

 

瞑想やヨガをやっていらっしゃる方はわかるかもしれませんが、人って「心配している自分」を観察することができるんですよね。

これ、面白くないですか?

 

例えば、ある時アワアワと焦っていたとしますよね?

そんな自分を「わ!私焦ってんな!落ち着け!」って感じていたりしませんか?

 

焦っている自分とそれを観ている自分。

 

これ、どっちが本来の自分なのでしょうか?

 

もう少し引いて観るともっと面白いんです。

 

焦っている自分とそれを観ている自分。そしてその両方を観ている自分が現れる。

 

アワアワと焦っている自分←を観ている自分。←その両方を観ている自分。

 

やってみると、この視点はもっともっと増えていくのが分かります。

 

さて。

自分っていったいどこにいるんでしょう。

どの視点が自分なのでしょう。

果たして『ほんとうの自分』なんているのでしょうか?

 

こうやって視点をどんどんどんどん増やしていくと、一番最初に現れた(ように感じる)『アワアワと焦っていた自分』がずいぶんとちっぽけに小さく観えてきます。

その後でこんなことが起こるんです。

 

あれ?

どうして焦ってたんだっけ??

 

こんな風に“焦り”のリアリティが薄まるんですね。

もしくは前回書いたように“焦り”という刺激が起こっただけということがわかる。

 

結果、焦っている自分を愛しく感じながらほうっておくことができるんです。

「あー私焦ってるのかぁ。ふむふむ。焦るとこうなるのかぁ。」と。

 

『心配』に関してもまるで同じです。

 

『心配』が起こっても巻き込まれずにそっとそのまま置いておくことができる。

「あー私今○○について心配してるんだなぁ。心配が起こるとこんな感じなんだなぁ。」と。

 

これは逃げているんじゃないんです。

逆にアリアリとそのまま、あるがままをジッと観るという練習です。

で、その上で今どうする?どうしたい?と問う。

するとおのずから今した方がいいこと、しない方がいいこと、かける言葉、反応の仕方がわかってくる。

 

もし失敗しちゃっても大丈夫。

またそれをアリアリとあるがまま、ジッと観ればいいのですから。

 

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うちの夏さん。いつでも寛いでいます。羨ましい…。

 

子どもが宿題をしないとイライラしますか?

子どもの学力が低いと怒りたくなりますか?

子どもの躾が上手くいかないようなことがあると悔しいですか?

子どもが言うことを聞かないと声を荒げたくなりますか?

子どもが口ごたえすると怒りがこみあげますか?

子どもが食事をキチンと食べないとコラ!!と言いながら座らせますか?

子どもがダラダラとゲームをやり続けたら「これはまずい」と焦りますか?

 

 

もしそうなら、それはなぜですか?

 

それはほんとうにまずいことですか?

それはほんとうにダメなことですか?

 

もしほんとうにそれはまずいことだ!と思うなら、もう一度聞きますが

 

それはなぜですか?

 

怒らない育児、叱らない育児を全面的に推奨しているわけではないんです。

怒っても叱ってもいいと思いますよ。

だって人間ですから。

でも、よくよく考えてみて欲しいのです。

 

それはなぜなのか?と。

ちゃんと説明できますか?

誰かの言葉ではなく、自分がきちんと考えた言葉で。

代々言われ続けてきたから~なんていう曖昧な言葉ではなく、ご自分があらゆる角度から観た視点で出した言葉で。

 

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娘と夏さん。可愛すぎる。

私にはわからないことだらけです。

この世界のことも、人間のことも、身体のことも、宇宙のことも、人生のことも。

自分がどこにいるかすらわからない。

自分の感情がどこから湧くのかすらわからない。

そもそもどうして今ここにいるのかすらわからない。

子どもがお腹の中で育つことすらどうしてなのかわからない。

自分のお腹の中で確かに目の前のこの子が大きくなっていったはずなのに、それがどうして行われていたのかすらわからないのです。

 

だからいつでも思います。

 

「子育てなんかできない」

 

と。

 

ママもなんにもわかんないから怖かったりするんだ。

ママも人生のことがわからないまま生きてるから、一緒に冒険しよう。

怖いし、心配にもなるし、間違っちゃうこともあるけれど、とにかくわからないまま全身で生きてみよう。

 

痛かったら「痛いよーー!!」って言おう。

楽しいときは「たっのしぃーー!!」って言おう。

悲しかったらわんわん大泣きしよう。

怒りが湧いたら一緒に味わおう。

悔しいときはおおいに悔しがろう。

他の人を妬ましく感じたなら「妬ましい」について一緒に感じながら考えてみよう。

そしてもしあなたの『幸せ』がわかったなら、ママにもそれを教えてね。

 

視点をどんどん増やしていって、この未知なる『私』を知っていこう。

世界は『私』の視点で出来上がるらしいからさ。

 

 

私は何もわからないので、こんな感じのことを娘に伝えているつもりです。

(これからもずっと伝えていくつもりです。)

 

娘の幸せは娘のもの。

亮一さんの幸せは亮一さんのもの。

私の幸せは私のもの。

 

 

娘が幸せそうだと私が幸せなので私にできることは全力でやるつもりです。

亮一さんが幸せそうだと私が幸せなので私にできることは全力でやります。

でも、私が幸せそうじゃなければ亮一さんも娘もきっと幸せじゃないだろうから、私は私を全力で幸せにします。

 

だからいつでも練習します。

 

「心配が起こってもそのままそっとしておける」練習。

 

心配に惑わされる時があっても大丈夫。

また気付けばいいんだから。

ジッと見つめる視点に気付けばいいんだから。

 

 

これから世の中の価値観が大いに変わってくるような気がします。

そんな時にジッとあるがままを見つめる視点をもっているときっと役に立ちますよ。

 

人はいずれ死にます。

誰でもです。

そしていつ死ぬかはわかりません。

 

そこだけはみんな平等なんですね。

 

どうやって生きる?

どうせ死ぬけど、どうやって過ごす?

ガミガミどうでもいいことで怒りながら子育て、する?

それとも起こった『心配』をそっとそのままにしておきながら、くだらないことで笑って過ごす?

 

私は笑って過ごしたい。

私はどうでもいいコダワリなんかとっとと捨てて、ただ笑って過ごしたい。

ごまかさず、逃げず、できるだけ真剣に挑んだ後に大笑いしたい。

そして間違えたと思ったらすぐに心から謝れるようでありたい。

(子どもに謝れない親御さん、多いんだよね。なんで?プライド?怖いの?)

 

これを読んでくださっているあなたはどうですか?

一緒に笑える人が増えるといいな。

どうせ生きるなら、楽しい方がいいからね。

 

 

 

最後に。

蓮華舎のみなさま、舎長であるおーちゃん、そして読んでくださったみなさん。ほんとにほんとにありがとうございました!!

自由に書かせてくださったこと、心から感謝いたします。

稚拙な文章を根気よく読んでくださったこと、感謝いたします。

またどこかでお会い出来たら嬉しいです。

 

私はこれからもいつでもどこでもこう言っていると思います。

 

「あーーん!私には子育てなんかできないんだよー!」と。

 

ふふふ。

どうしょもねーな。笑

 

それではまた。どこかで。

 

 

いくつかブログをやってます。

よかったら遊びに来てください。

https://yukiukix.hateblo.jp/entry/2021/01/05/182019

 

こちらは亮一さんと一緒にやっている夫婦ブログです。

夫婦の交換日記のような内容です。

一部マニアの方たちからは好評のようです。笑

ずっと更新が止まっていたのですが1年ぶりに再会いたしました。

よろしければどうぞ。

 https://note.com/yukiukix/n/n95b87ec530b3

 

私のソープ嬢時代の自叙伝『私のコト』を今年は書籍化することに決めました。

このブログを書籍化するのですが、もっと読みやすくし、ブログに書いていないお話しやコラムなど追加するつもりです。

このブログをまだ読んでいない方はもしよろしければ読んでみて下さいね。

そして書籍化した暁には、そちらも読んでもらえたらとってもありがたいです!

(続編も書いていくつもりです。そちらもお楽しみに!)

http://yukiukixkix.hatenadiary.jp/entry/2017/12/06/152209

 

横浜にあるパワースポット、『藤山家』で整う施術やっています。

亮一さんが作る絶品『亮一さんカレーの会』もリクエスト開催しています。

もし気になったらお気軽にお問合せください! 

https://yukiukix.hateblo.jp/entry/2021/01/11/173830

 

 

子育てなんかできない! 第12稿 《今さらですが子育てってなんですか?⑤》ゆっきぃ

子育てなんかできない!第12稿

《今さらですが子育てって何ですか?⑤》

 

『心配しないっていう方向性もあるんだよ。2』

 

みなさまこんにちは!

お久しぶりです。ゆっきぃです。

もう12月?!!!

私は「このお役目はいつまでやらせていただけるのだろう?」とお役目終了の日が来ないことを祈りながら、娘にこっそりとなるべく自然に質問を重ねています。

 

「ねぇねぇ。今年はサンタさんに何をお願いするの?」

 

どんな物をお願いするのか、年々ドキドキしながら質問をするのもいいものです。

 

娘がお願いするものは手に入るものだろうか…?

(限定品とかレアものだったらどうしよう…ってやつですね。)

ものすっごい高いものお願いするって言われたらどうしよう…。

「サンタさんってほんとは親なんでしょ?」とか冷めた目で言われたら…。

 

そんな“心配”を頭の片隅で考えながら、なるべく自然な流れで質問をするのです。

幸福をじんわりと感じながら。

 

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家の可愛い2人。ハルくん(♂4歳)と夏さん(♀4歳)。仲良し。

 ここまで書いて、ちょっと思い出したエピソードがあったので書かせてくださいね。

私は小学校、中学校、高校とずっと演劇部に所属していたのですが(芝居好きだったのですよ。今も好きです。)、中学生の時にハマっていたのが『キャラメルボックス』という劇団です。

中学2年生の時、キャラメルボックスの代表作ともいうべき『不思議なクリスマスのつくりかた』というお芝居に演劇部の顧問の先生が連れて行ってくれました。

その舞台に大感動した私は、貯めていたお金で戯曲(脚本)を購入したのですが、その脚本の裏表紙だったかどこだかにこんな言葉が書いてありました。

 

『誰だって誰かのサンタクロースになれるんだ』

『僕をサンタクロースにならせてくれて、ありがとう』

 

(言葉自体はうろ覚えなのでもしかしたらこんな言葉ではなかったかもしれません。でもこんな感じだった記憶です。)

中学生の頃の私はそれを見てなんだかものすごく驚いて、その言葉に目が釘付けになったのでした。

 

私はそれから誰かにクリスマスプレゼントを贈るたびに心の中で「私は今この人のサンタクロースなのだ。むふふ。ありがとう。」と密かに思っていたりします。

(恥ずかしいので口に出して言いませんが。今書いてしまっているけれど。笑)

 

もしこれから時がたち、娘に「サンタさんってほんとはいないんでしょ?」なんて言われたら、どんなにバカらしく聞こえようとこう答えようと思っています。

 

「いるよ。だってパパとママがサンタさんになったんだから。サンタクロースにならせてくれてありがとう。ママはこれからもサンタにも(なんにでも)なるつもりだよ。」

 

むふふふ。

どうです?

アホらしいですか?

 

私は中学生の頃からずっと心の中でひっそりとそう思っています。

それだけで嬉しくなりますし、幸福な気持ちになりますから。

 

これは私が地獄の底を泥まみれで這いずり回るような生活をおくっていた時にも、根底にそこはかとなくずーっとあった想いでした。

(15歳くらいから29歳くらいまで私の人生はぐっちゃぐちゃのドロドロでした。自死を何度も何度も考えましたよ。ほんとにねぇ。)

 

地獄の底を泥まみれで這いずり回り、自分をとことん嫌い、幸福なんて私には一生やってくるはずがないと強く思っていた私の根底にこんな想いがずっと流れていた。

 

不思議じゃないですか?

 

不幸のどん底にいると心の底から思っているのに、その一方で誰かのサンタさんになれる幸福を感じていた自分もずっとひっそりといたなんて。

 

私は信じ込んでいただけなんですね。

 

どん底で泥まみれで這いつくばって自分をとことん嫌いで、自分に幸福なんて訪れるわけがないと。

「信じ込んでいる」という自覚がないままに。

 

ひっそりと根底に流れるその想いは、あまりにもひっそりしすぎていてなかなか気付かないのです。

 

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家のベランダから観た素敵な夕焼け。綺麗だね。

 『幸せ』とか『幸福』とか『安心』とかって、誰もが望むものだと思います。

人間として生まれた人誰もが願ってやまないものではないでしょうか。

(違う人もいるのかなぁ。)

 

でもそれはとても微細で、いつもそこにありすぎて、気づきにくいものなのだと感じます。

 

不安や心配や恐怖心の方が派手でわかりやすかったりするものですから、ついそちらへ意識が強くいってしまうものなのだと思うのです。

 

私も未だにその方向性へ行ってしまう時があります。

不安で仕方がなくなったり、恐怖心で足がすくんだり、すぐに安定を望んだり。

そんなことはしょっちゅうあります。

ですがどんどんそこにいる時間が短くなっています。

「心配しない方向性」をすぐに選びなおせるようになっています。

 

私は恐怖心を感じたときは「あーーー!!怖い!!怖い怖い怖いーーー!!」と本気で地団駄を踏みます。

ほんっきの本気でバタバタと怖さを体験します。笑

 

悪態をつく時もしょっちゅうあります。

「ふざけんなよぉーー!!ちっくしょーーー!!!」と肚の底から悪態をつきます。

誰に悪態をつくかって?

それは「神様に」ですよ。笑

バチあたりだと思います?

いいんです。

私は神様と対等な立場だと思っていますから。

 

さて、この時に少しだけ“気付く”コツがあります。

何に気付くかって?

その微細で気付きにくい“それ”にです。

私は地団駄を踏むときも、悪態をつくときも、そんな自分を必ず観察しています。

 

本気で地団駄を踏んでいても、心の底から悪態をついていても、そんな自分を観ている視点をつくるのです。いや、その視点に気づくのです。

もし“視点”がわかりにくかったら、自分の身体の反応がどうなっているか“感じて”みる。

 

その視点、その感じようとしている“それ”。

それはなんでしょう?

どうして自分を観ることができるのでしょう。

感じようとすることができるのでしょう。

 

そのうち気付く時がきます。

 

“それ”はずっと私とともにあったんだ、と。

 

目の前で何が起こっていようとも、どんなに私が不安になっていようとも、怖がっていようとも、嘆いていようとも、“それ”“その視点”はずーーーっとそこに共にあったんだ、と。

 

その視点から観ると、

『楽しい』『嬉しい』『面白い』と感じている時も、『悲しい』『悔しい』『苦しい』『怖い』と感じている時も、どれも質感が違うけれどただの“刺激”や“反応”だということがわかってきます。

 

この身体を持っているからこそ感じられる、この“私”という感覚があるからこそ感じられる“反応”であり“刺激”だと。

 

心配や不安はなくなることはありません。

この“私”という“個人感”がありつづける以上、なくなることはありません。

だけれども、視点と感覚をとりもどすと『心配』や『不安』はただの反応に変わります。

 

嫌だけれど嫌じゃない。

(いや、嫌なんですよ。笑)

排除したいと思ってしまうけれど、排除しなくても一緒にいられるようになります。

排除したくなることもただの(素敵な)反応ですから。

 

 

さて、ここで落ち着いてじっくり考えてみてほしいことがあります。

これはじっくりゆっくりぜひ考えてみてもらいたことなのですが、

 

この世の中のことで「わかっていること」って何かありますか?

あなたが「わかっている」と思っていることって何かありますか?

 

どうして胃に胃液が出てくるのでしょう?

(「消化の為です。」とかそういう答えが聞きたいわけではありませんよ。笑)

心臓は誰が動かしているのでしょうか?

腸の蠕動運動って(自分で)したことありますか?

肝臓で血液が造られるそうですが、見たことあります?

その造られているところを。

それは一体どうして起こっているのでしょうか。

 

月ってほんとはどれくらいの距離なんですかね?

ほんとに存在しているのでしょうか?

だって実際に知らないですよね?

その距離を知っているとしたらそれは“ただの誰かが言った知識”ですよね。

行ったことないですもん。私は。

 

屁理屈を言いたいんじゃないんです。

今一度よーーく考えましょうよ、という“お誘い”です。

 

自分で心臓を意図的に動かすことすらできないのに、どうして思い煩うのでしょう。

 

知識を詰め込むことは簡単です。

それで“わかった気になる”のも簡単です。

 

この世の中にある研究結果や先人たちが必死で解明しようとしてわかったことは尊いものです。

エビデンスだって一つの重要な指針です。

それを創り上げた先人の方たちに心からの敬意をはらいます。

 

でもね、「自分は何もわかっちゃいないんだ」と認めることもとっても重要な『幸福に生きる』コツなのではないか?と思うのです。

エビデンスだって私が実際とったわけではありませんから。

それを採用するかしないかは自分で選ぶ、ということですね。)

 

何もわかっちゃいない私が心配するなんてどういうこと?

それに心配できるほど私はなんにも知らないしわかっちゃいない。

 

心配して思い煩っていた私が↑ここに立ち返るとただただおかしくて滑稽で笑えてくるのです。

 

「なに?!私コントやってるの?!ぶはははは!」

 

と。

 

それでも『心配』は起こります。

『不安』は立ち上がります。

なくなることはありません。

 

その時に何度も何度も気づく。

その『心配』を排除することなく、共にある。

ただの(とっても尊い)刺激で反応ですから。

 

よく人は「この心配事がなくなったら幸せになれるんだ!」と思いがちです。

私もそう思ってしまう時があります。(未熟者だ…)

 

排除をしようとした時、そこに不幸は訪れる。

ただそれを見つめた時、そこに幸福が立ち上がる。

 

これはかの有名な「ゆっきぃ禅師」が言った格言です。ぶはは。

 

 

ところで、子育てって誰がやっているんですかね?

私、そんなことやった覚えないですし、できません。

だって(意図的に)胃液を分泌したことすらないんですもの。

 

『心配』は起こるもの。

そして私はただそれを見つめて感じてみるだけ。

 

なくならないなら観てみない?

またすぐにやってくるなら感じてみない?

どうせ何にもわかんないまま生きてるんだもの。

 

さてさて。

今世の中が大騒ぎ(のよう)ですね。

いろんなことが起こっているみたいです。どうやら。

変換の時、転換の時には不安や恐怖や心配は付き物です。

変化って怖いですもんね。

 

恐怖も不安も心配も付き合い方を知っちゃえばなんとかなる。

目の前に起こることがグルグルと目まぐるしく感じても、“それ”はいつもそこにある。

気付けるか気付けないか、ただそれだけ。

 

まぁ実際の私は毎日毎日ギャーギャーうるさく過ごしていますがね。笑

そんなものです。

 

さー!

次回でこの連載も最終回です。

あと残り1回。

よかったら次回もお付き合いくださいね。

今回も最後まで読んでくださってありがとうございます!

この記事がどなたかの役にたてばいいなと思っています。

ではまた。

来月までどうかお元気でいて下さいね。

 

 

山田麻子 今月のひと筆。2020年 12月

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©Asako Yamada

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【潜水深度】

年の瀬。

今年はどこまで潜れたのかな? 

次はどこまで潜れるのでしょうか?

 

山田麻子 手書き暦  

2021年「手書き暦」申し込みは締め切りました!また、来年をお楽しみに!