《今さらですが子育てってなんですか?②》
『可愛いだけでも子どもは育つ?』
みなさんこんにちは!
だんだん肌寒くなってきましたねー。
朝晩のひんやりとしてカサカサとした空気がほっぺに当たると「あー…また今年もこの季節がきたんだなぁ…」と空を見上げてしまいます。
家の窓からは風に乗って金木犀がふんわりと香り、やっぱりこの季節もいいもんだなぁと再確認させられます。
年々秋が好きになり、このあとやってくる冬も好きになってきている自分にいつも驚きます。
あんなに「夏しかいらない!!!」と叫んでいたのに。笑
変化を楽しむ。
それは『この世界はいつだってどの瞬間もずっと変化し続けているんだ』ということを諦め続け、その中でも唯一変化しない視点から観るということに気付き続けているからできることなんだろうなぁなんて思います。
前回の《今更ですが子育てってなんですか?》の記事は読んで頂けたでしょうか?
もしまだの方はこちらからぜひ読んでみて下さい。↓↓↓
子育てなんかできない!1~8稿
この記事を蓮華舎の舎長のおーちゃんに寄稿した際、おーちゃんがこんな感想をくれました。
「子どもは可愛いだけで育つってとこ、もう少し詳しく聞きたいなぁ。そう思う人結構いるんじゃないかな?」
(こんな感じだったよね?おーちゃん。合ってるよね?笑)
私はおーちゃんからその言葉を受け取った時、「なるほど」と深く頷きながらも「こりゃたいへんなことを書いてしまったぞ」と思いました。
子どもは可愛いだけでも育つよ。
この一文の中にものすごくたくさんのことが詰まっていることに気付いたからです。
私の母親は「子どもはいいわよぉ~。ほんっとに可愛いから!でもねぇ…可愛いだけじゃ育てられないのよぉ…」とよく私に言っていました。
私はその言葉を聞いて、「まぁ…そうだよなぁ…よく聞く言葉だし、みんなそう言うもんなぁ…」と何の疑問も持たず受け取りました。(まだ娘がいない時です。)
私の母親は何をもってこの言葉を言っていたのだろう。
「可愛いだけじゃ育てられない」とはどういうことだろう。
そんなことを思い始めたのは娘が生まれてしばらく経ったころでした。
私にもきっと「可愛いだけじゃ育てられない」と思う日がくるのかもしれない。
頭の片隅でそんなことを思いながら日々過ごしていたのですが、もう9年が経ちました。
未だに頭の片隅で「今はまだ9歳だよな。可愛いだけじゃ育てられないという日が私にもやってくるのかもしれないなぁ」と言っている私がいます。
ですが、今の時点での9年間、私は一度も「可愛いだけじゃ育てられないのよぉ」なんて思ったことがありません。
これから思う日が来るのかもしれませんが、今のところただの一度も思ったことがないのです。
数年前、私の友人の勧めで近所の保育園で保育補助のアルバイトをしたことがありました。
週一回だけ、ほんの7時間くらいのアルバイトです。
「ゆっきぃさんは子どもが好きだから合ってると思って!人手が足りないから手伝ってほしいの!」というお誘いでした。
私は子どもがとにかく好きなので「いいよ!やるやる!」とすぐに引き受けました。
ですが、その彼女も同じようなことを言いました。
「でも、子どもが可愛いだけではできない仕事ですから…」と。
そして実際に保育園でのお仕事に行き始めた私は「ん?」と目を丸くするようなことにたくさん遭遇するのですが、そこには「可愛いだけじゃ子どもは育たないんですよ!」と力いっぱい身体中で表現している先生たちが何人もいました。
まだとっても小さいやっとよちよち歩きができるようになったような子たちもいる1歳児クラスの担当になった私。
可愛くて可愛くて「うわぁ~♡」と喜んだのも束の間。
ママと離れたくない子どもが大きな声で「ママぁ~!!」と泣きました。
当たり前のことですよね。
大好きなママと離れるんですから。
すると1人の若い先生が強い口調でこう言いました。
「ママはお仕事!泣かないっ!!」
「もう泣かないの!強い子でしょ?!」
給食の時間にはこんなこともありました。
まだ小さい1歳児。
手づかみ食べもしてしまうくらいの年です。
1人の大人が3人の園児を見ながら食べなければいけない給食の時間はとても忙しくて大変です。
でも私は子どもたちが可愛くて可愛くて、どうやって楽しく食べようかと考えていました。
もちろん何もわからないド素人ですから、先輩先生たちの動きを見ながらです。
比較的大きくて面倒の見やすい子たちを私の担当にしてくれたようなのですが、それでもやっぱりまだ小さい子たちです。
どうしてもスプーンやフォークではなく手でつかんでしまうこともあります。
私は手づかみ食べを悪い事だとは思っていないのでニコニコしながら「おーっと!スプーンも使ってみよっかー。」と緩く促しました。(スプーンやフォークを使えるように指導してくださいと言われていたので。)
その時、1人の先輩先生が私に向かって強くこう言いました。
「先生!手づかみ食べをやめさせてください!」
そして園児に向かって
「○○ちゃん!ちゃんとスプーン使えるでしょ!!使いなさい!!」
とキッ!ときつい目で見ながら言いました。
その子はおびえたような目で小さく頷きながら、まだ慣れていないスプーンを手に持ち、その先生の方をチラチラ見ながら給食を食べました。
私はその光景が未だ頭から離れません。
私がアルバイトに行った園はこうやって指導することが当たり前のような空気が流れていました。
なので「藤山先生、甘やかさないでください。」と何度も言われました。
先生たち1人1人はとても良い人たちです。
園児たちがお昼寝に入ると顔つきも穏やかになり、普通に話すととても親切なんです。
私はこのギャップに悩みました。
そして私はどうしても園児にキツく怒ることができずに、いつも一緒に遊んでしまうのでよく先生たちに怒られていました。
(結局私はそこのやり方に耐えられずに3ヶ月で辞めてしまうのです。あはは…)
この園の先生たちが必死にやっているのは見ていてよくわかりました。
みんな一生懸命やっているんです。
その一生懸命さは一体どこに向かっているのでしょう。
「子どもは可愛いだけじゃ育たない」
この言葉の中には何があるのでしょうか。
私はこの言葉自体がセリフのように蔓延してしまっているような気がするのです。
「子どもは可愛いだけじゃ育たないから…」
「子どもが可愛いだけではできない仕事ですから…」
このセリフを言われてしまうと「あぁ…そうですよねぇ…」となぜか言い返せなくなるような効力まで持ってしまい、すごい市民権を獲得してしまっているような気がしてならないのです。
そこに含まれているものってこれなんじゃないかな?と思うものがあります。
それは
『親の責任』
『子どもを預かる大人の責任』
ほんとは可愛いだけでいたいのに、ほんとはもっと子どもとの時間を無邪気に楽しみたいのに、
そんな思いにすら気付かないくらい『親の責任』や『子どもを預かる大人の責任』という言葉にやられてしまっているのではないか?と思うのです。
さて。
責任って何でしょう。
誰が誰に対して負う責任なのでしょうか。
『責任』という言葉についてちょっと調べてみたら、こんな言葉が書いてありました。
「自分のしたことの結果について責めを負う事。特に失敗や損失による責めを負う事。」
こ、怖いっ!!
子育てに失敗したくない。
責任を負うのはこっちだ。
だから細心の注意をはらい、なるべく危険は回避する。
子どもの失敗は親の責任だ。そこを重々考えながら子育てをしなければ。
そう。
だから子育ては大変なんだ!可愛いだけじゃ育てられないのよ!!
こんな感じでしょうか?
あぁ辛い…
大人になるって辛いっす…
そう思いませんか?
ましてや親になるってとってもしんどいことのように感じませんか?
私は『親の責任』という言葉が好きではありません。
いや、嫌いといった方がいいくらいです。
私は過去に家出をしました。
家出をしてから私はハチャメチャな毎日をおくりました。
ハチャメチャなんて可愛い気のある言葉に当てはまらないような毎日をおくりました。
その家出期間はとても長く、7年ほどの歳月家出をしていたのです。
私はその期間、傍から見た行為としてはハチャメチャでしたが全力で自分の人生を真剣に悩みながら過ごしていました。
ですが、その間私の父親と母親は「これは自分たちの育て方が悪かったんだ。親の責任だ。」と苦悩するのです。
結果として、私の両親は『私を信頼し続ける』ということを態度で示し続けてくれたので今の私があるのですから、見事に『親の責任』を果たしてくれたと思っています。
ですがやっぱり私は『親の責任』という言葉が好きではありません。
なんだかどことなく子どもをバカにしているような感じがするからです。
“親だから”子どものやったことに責任をとるのでしょうか?
私はこう思います。
『私は私の人生の責任をとり続けるんだ』と。
あぁ…大きな口を叩いてしまいました…
自信はありません。笑
責任の取り方の正解なんてわからないですし。
でも一つだけわかっていることがあります。
私は私の人生以外は絶対に体験できないんだ
という紛れもない事実です。
だからいつだって正直でいたいし、起こった出来事や自分の中に湧いた感情や想いを全身で感じていきたい。
私は私の人生を全肯定していきたい。
そう思っているのです。(まだ全肯定しきれないあきらめの悪いやつでございますが…とほほ)
私の人生の中に亮一さんという男性が現れ、心から愛しいという感情が湧き、結婚という行為をし、子どもができた。
出産という行為が起こり、“娘”とよばれるとてもつもなく可愛い存在が私の人生に現れた。
私は目の前に現れたこの“娘”とよばれるその存在全てを感じたいし、その存在があるからこそもたらされる私の中に湧く感情を味わいたい。
それがたとえ怒りや憤慨や絶望だったとしても真正面から味わい、その感情を味わっている自分がどんな風になるのかを知りたい。(その辺の感情って嫌だけどね。笑)
私はいつだって自分の人生の責任をとりたいし、自分の人生を全身で体験したいのです。
私の人生の中に現れた娘はとてつもなく愛しく、可愛くて仕方がないという感情を味合わせてくれています。
私はただそれを受け入れ続けているだけなのです。
子どもの幸せを祈らない親はいないと思います。(いるのかもしれないけれどね。)
私も心の底から祈ります。
どうかあの子が幸せでありますように。と。
そうであるがゆえに、コントロール欲が湧くときがあります。
「この子が幸せであるためにはこうでなければ!」なんて。
そんな時、私はいつだって立ち返ります。
幸せってなんだ?と。
あの子の幸せはあの子のものだ。
私は私の人生を受け入れ続けることしかできないんだ。
そうすると、とてつもなく全てが愛しく感じるのです。
娘はとても可愛いです。
全てが愛しいです。
だから私は思います。
子どもは可愛いだけでも育つよ。
まぁこれからその考えも変わるかもしれませんが。笑
変化を楽しむことができるのは変化を見つめるいつでも変わらない視点に気付いているかどうか。
変化しまくりの子どもが目の前にいます。
私はただ面白がりながら、楽しみながら、時に切なさや淋しさを感じながら、見つめ続けていくだけですね。
今回もちょっと長くなってしまいました。
最後まで読んでくれてありがとうございます!!
さて、今回に限り(?)特別に明日もこの連載の続きがアップされます。
先日、この『可愛いだけでも子どもは育つ?』について私の9歳の娘に意見を求めたのですが、その意見がとてつもなく面白く、娘も「私からのメッセージをできれば書いてほしい!」と言っていました。
舎長のおーちゃんが「じゃあ2日連続で投稿しちゃう?」という素敵な提案をしてくれたので明日は娘と私のお話しと「育てられる側」の娘からのメッセージを書いていきます。
きっと面白いと思います。
よかったら読んでみて下さいね!