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子育てなんかできない! 第9稿 《今さらですが子育てってなんですか?②》ゆっきぃ

 《今さらですが子育てってなんですか?②》

『可愛いだけでも子どもは育つ?』

 

みなさんこんにちは!

だんだん肌寒くなってきましたねー。

朝晩のひんやりとしてカサカサとした空気がほっぺに当たると「あー…また今年もこの季節がきたんだなぁ…」と空を見上げてしまいます。

家の窓からは風に乗って金木犀がふんわりと香り、やっぱりこの季節もいいもんだなぁと再確認させられます。

年々秋が好きになり、このあとやってくる冬も好きになってきている自分にいつも驚きます。

あんなに「夏しかいらない!!!」と叫んでいたのに。笑

 

変化を楽しむ。

 

それは『この世界はいつだってどの瞬間もずっと変化し続けているんだ』ということを諦め続け、その中でも唯一変化しない視点から観るということに気付き続けているからできることなんだろうなぁなんて思います。

 

前回の《今更ですが子育てってなんですか?》の記事は読んで頂けたでしょうか?

もしまだの方はこちらからぜひ読んでみて下さい。↓↓↓

子育てなんかできない!1~8稿

 

この記事を蓮華舎の舎長のおーちゃんに寄稿した際、おーちゃんがこんな感想をくれました。

「子どもは可愛いだけで育つってとこ、もう少し詳しく聞きたいなぁ。そう思う人結構いるんじゃないかな?」

(こんな感じだったよね?おーちゃん。合ってるよね?笑)

私はおーちゃんからその言葉を受け取った時、「なるほど」と深く頷きながらも「こりゃたいへんなことを書いてしまったぞ」と思いました。

 

子どもは可愛いだけでも育つよ。

 

この一文の中にものすごくたくさんのことが詰まっていることに気付いたからです。

 

私の母親は「子どもはいいわよぉ~。ほんっとに可愛いから!でもねぇ…可愛いだけじゃ育てられないのよぉ…」とよく私に言っていました。

私はその言葉を聞いて、「まぁ…そうだよなぁ…よく聞く言葉だし、みんなそう言うもんなぁ…」と何の疑問も持たず受け取りました。(まだ娘がいない時です。)

 

私の母親は何をもってこの言葉を言っていたのだろう。

「可愛いだけじゃ育てられない」とはどういうことだろう。

そんなことを思い始めたのは娘が生まれてしばらく経ったころでした。

 

私にもきっと「可愛いだけじゃ育てられない」と思う日がくるのかもしれない。

頭の片隅でそんなことを思いながら日々過ごしていたのですが、もう9年が経ちました。

未だに頭の片隅で「今はまだ9歳だよな。可愛いだけじゃ育てられないという日が私にもやってくるのかもしれないなぁ」と言っている私がいます。

ですが、今の時点での9年間、私は一度も「可愛いだけじゃ育てられないのよぉ」なんて思ったことがありません。

これから思う日が来るのかもしれませんが、今のところただの一度も思ったことがないのです。

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娘と一緒に作ったクッキーを味わって食べる。美味しいなぁ。

数年前、私の友人の勧めで近所の保育園で保育補助のアルバイトをしたことがありました。

週一回だけ、ほんの7時間くらいのアルバイトです。

「ゆっきぃさんは子どもが好きだから合ってると思って!人手が足りないから手伝ってほしいの!」というお誘いでした。

私は子どもがとにかく好きなので「いいよ!やるやる!」とすぐに引き受けました。

ですが、その彼女も同じようなことを言いました。

「でも、子どもが可愛いだけではできない仕事ですから…」と。

そして実際に保育園でのお仕事に行き始めた私は「ん?」と目を丸くするようなことにたくさん遭遇するのですが、そこには「可愛いだけじゃ子どもは育たないんですよ!」と力いっぱい身体中で表現している先生たちが何人もいました。

 

まだとっても小さいやっとよちよち歩きができるようになったような子たちもいる1歳児クラスの担当になった私。

可愛くて可愛くて「うわぁ~♡」と喜んだのも束の間。

ママと離れたくない子どもが大きな声で「ママぁ~!!」と泣きました。

当たり前のことですよね。

大好きなママと離れるんですから。

すると1人の若い先生が強い口調でこう言いました。

 

「ママはお仕事!泣かないっ!!」

「もう泣かないの!強い子でしょ?!」

 

給食の時間にはこんなこともありました。

まだ小さい1歳児。

手づかみ食べもしてしまうくらいの年です。

1人の大人が3人の園児を見ながら食べなければいけない給食の時間はとても忙しくて大変です。

でも私は子どもたちが可愛くて可愛くて、どうやって楽しく食べようかと考えていました。

もちろん何もわからないド素人ですから、先輩先生たちの動きを見ながらです。

比較的大きくて面倒の見やすい子たちを私の担当にしてくれたようなのですが、それでもやっぱりまだ小さい子たちです。

どうしてもスプーンやフォークではなく手でつかんでしまうこともあります。

私は手づかみ食べを悪い事だとは思っていないのでニコニコしながら「おーっと!スプーンも使ってみよっかー。」と緩く促しました。(スプーンやフォークを使えるように指導してくださいと言われていたので。)

その時、1人の先輩先生が私に向かって強くこう言いました。

 

「先生!手づかみ食べをやめさせてください!」

 

そして園児に向かって

 

「○○ちゃん!ちゃんとスプーン使えるでしょ!!使いなさい!!」

 

とキッ!ときつい目で見ながら言いました。

その子はおびえたような目で小さく頷きながら、まだ慣れていないスプーンを手に持ち、その先生の方をチラチラ見ながら給食を食べました。

私はその光景が未だ頭から離れません。

 

私がアルバイトに行った園はこうやって指導することが当たり前のような空気が流れていました。

なので「藤山先生、甘やかさないでください。」と何度も言われました。

先生たち1人1人はとても良い人たちです。

園児たちがお昼寝に入ると顔つきも穏やかになり、普通に話すととても親切なんです。

私はこのギャップに悩みました。

そして私はどうしても園児にキツく怒ることができずに、いつも一緒に遊んでしまうのでよく先生たちに怒られていました。

(結局私はそこのやり方に耐えられずに3ヶ月で辞めてしまうのです。あはは…)

 

この園の先生たちが必死にやっているのは見ていてよくわかりました。

みんな一生懸命やっているんです。

 

その一生懸命さは一体どこに向かっているのでしょう。

 

「子どもは可愛いだけじゃ育たない」

 

この言葉の中には何があるのでしょうか。

私はこの言葉自体がセリフのように蔓延してしまっているような気がするのです。

 

「子どもは可愛いだけじゃ育たないから…」

「子どもが可愛いだけではできない仕事ですから…」

 

このセリフを言われてしまうと「あぁ…そうですよねぇ…」となぜか言い返せなくなるような効力まで持ってしまい、すごい市民権を獲得してしまっているような気がしてならないのです。

 

そこに含まれているものってこれなんじゃないかな?と思うものがあります。

それは

 

親の責任

子どもを預かる大人の責任

 

ほんとは可愛いだけでいたいのに、ほんとはもっと子どもとの時間を無邪気に楽しみたいのに、

そんな思いにすら気付かないくらい『親の責任』や『子どもを預かる大人の責任』という言葉にやられてしまっているのではないか?と思うのです。

 

さて。

責任って何でしょう。

誰が誰に対して負う責任なのでしょうか。

 

『責任』という言葉についてちょっと調べてみたら、こんな言葉が書いてありました。

 

「自分のしたことの結果について責めを負う事。特に失敗や損失による責めを負う事。」

 

こ、怖いっ!!

 

子育てに失敗したくない。

責任を負うのはこっちだ。

だから細心の注意をはらい、なるべく危険は回避する。

子どもの失敗は親の責任だ。そこを重々考えながら子育てをしなければ。

そう。

だから子育ては大変なんだ!可愛いだけじゃ育てられないのよ!!

 

こんな感じでしょうか?

あぁ辛い…

大人になるって辛いっす…

そう思いませんか?

ましてや親になるってとってもしんどいことのように感じませんか?  

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娘が書いたとてつもなく可愛い絵。『親の責任』とかどうでもよくなります。笑

私は『親の責任』という言葉が好きではありません。

いや、嫌いといった方がいいくらいです。

 

私は過去に家出をしました。

家出をしてから私はハチャメチャな毎日をおくりました。

ハチャメチャなんて可愛い気のある言葉に当てはまらないような毎日をおくりました。

その家出期間はとても長く、7年ほどの歳月家出をしていたのです。

私はその期間、傍から見た行為としてはハチャメチャでしたが全力で自分の人生を真剣に悩みながら過ごしていました。

ですが、その間私の父親と母親は「これは自分たちの育て方が悪かったんだ。親の責任だ。」と苦悩するのです。

 

結果として、私の両親は『私を信頼し続ける』ということを態度で示し続けてくれたので今の私があるのですから、見事に『親の責任』を果たしてくれたと思っています。

 

ですがやっぱり私は『親の責任』という言葉が好きではありません。

なんだかどことなく子どもをバカにしているような感じがするからです。

“親だから”子どものやったことに責任をとるのでしょうか?

 

私はこう思います。

『私は私の人生の責任をとり続けるんだ』と。

 

あぁ…大きな口を叩いてしまいました…

自信はありません。笑

責任の取り方の正解なんてわからないですし。

でも一つだけわかっていることがあります。

私は私の人生以外は絶対に体験できないんだ

という紛れもない事実です。

だからいつだって正直でいたいし、起こった出来事や自分の中に湧いた感情や想いを全身で感じていきたい。

私は私の人生を全肯定していきたい。

そう思っているのです。(まだ全肯定しきれないあきらめの悪いやつでございますが…とほほ)

 

私の人生の中に亮一さんという男性が現れ、心から愛しいという感情が湧き、結婚という行為をし、子どもができた。

出産という行為が起こり、“娘”とよばれるとてもつもなく可愛い存在が私の人生に現れた。

私は目の前に現れたこの“娘”とよばれるその存在全てを感じたいし、その存在があるからこそもたらされる私の中に湧く感情を味わいたい。

それがたとえ怒りや憤慨や絶望だったとしても真正面から味わい、その感情を味わっている自分がどんな風になるのかを知りたい。(その辺の感情って嫌だけどね。笑)

私はいつだって自分の人生の責任をとりたいし、自分の人生を全身で体験したいのです。

 

私の人生の中に現れた娘はとてつもなく愛しく、可愛くて仕方がないという感情を味合わせてくれています。

私はただそれを受け入れ続けているだけなのです。

 

子どもの幸せを祈らない親はいないと思います。(いるのかもしれないけれどね。)

私も心の底から祈ります。

どうかあの子が幸せでありますように。と。

そうであるがゆえに、コントロール欲が湧くときがあります。

「この子が幸せであるためにはこうでなければ!」なんて。

そんな時、私はいつだって立ち返ります。

幸せってなんだ?と。

 

あの子の幸せはあの子のものだ。

私は私の人生を受け入れ続けることしかできないんだ。

そうすると、とてつもなく全てが愛しく感じるのです。

 

娘はとても可愛いです。

全てが愛しいです。

 

だから私は思います。

子どもは可愛いだけでも育つよ。

 

まぁこれからその考えも変わるかもしれませんが。笑

 

変化を楽しむことができるのは変化を見つめるいつでも変わらない視点に気付いているかどうか。

変化しまくりの子どもが目の前にいます。

私はただ面白がりながら、楽しみながら、時に切なさや淋しさを感じながら、見つめ続けていくだけですね。

 

今回もちょっと長くなってしまいました。

最後まで読んでくれてありがとうございます!!

さて、今回に限り(?)特別に明日もこの連載の続きがアップされます。

先日、この『可愛いだけでも子どもは育つ?』について私の9歳の娘に意見を求めたのですが、その意見がとてつもなく面白く、娘も「私からのメッセージをできれば書いてほしい!」と言っていました。

舎長のおーちゃんが「じゃあ2日連続で投稿しちゃう?」という素敵な提案をしてくれたので明日は娘と私のお話しと「育てられる側」の娘からのメッセージを書いていきます。

きっと面白いと思います。

よかったら読んでみて下さいね!

 

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山田麻子 今月のひと筆。2020年 10月

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©Asako Yamada


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『オン・メディテーション 』bySriM 2020年10月20発売!「『魂の次元における平等』があり、これは実際に実現可能なのです」ーなぜ瞑想するのか⑧

『ヒマラヤの師と共に』のSriMの最新作!『オン・メディテーション 現代を生きるヨーギーの瞑想問答』2020年10月20日発売!

「私たちはなぜ瞑想するのか⑧」

昨年のパブリックに向けた講演会の内容で、とてもわかりやすい動画になっています。本への導入としてもおすすめです。

本書はマインドフルネスや呼吸と身体、ヨガ、そして意識について余すところなく91のQ and A方式で書かれています。お楽しみに。

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<一部抜粋>

 

究極的な瞑想の目的は、あなたの本質を見つけることであり、この本質は他の誰の本質と異なるものでもないのです。全ての本質が繋がりあっているのです。

 

哲学者たちは平等性について考えてきました。

私は南インドから来ましたが、南インドの大学では赤い旗を見ることもできます。マルクス主義について接する機会があります。

私もカール=マルクスの重要な著書である『資本論』を読みました。

それらの哲学者は、平等性を目指し、経済の文脈での平等とユートピアの実現について討議してきました。これは良い考えではありますが、世界中のどこにも実現されることはありませんでした。知っていますよね。

 

しかし、私たちは「魂の次元における平等」があると信じています。そして、これは実際に実現可能なのです。

身体的に見ると、私たちが平等であることはありません。みんな違っていますね。しかし、ある一点においては同じなのです。

それは、すべての生きとし生けるものの心の深いところに「神の輝き」が存在している、ということなのです。そこにおいて平等です。

私がそれを知れば、他のものにもその輝きが内包されていることを知ることができるのです。誰かが知っていようといまいと、自分がそれをわかっていれば、他の人にも同様に神を見いだすことができる、ということなのです。

 

高いレベルの瞑想とは、私たちは、すべての人の意識の深層に共通してある魂のアイデンティティを発見することなのです。

それを成し遂げたのならば、死の前に平安のうちに休むことが可能です。生きているうちにそのようなことができるのでしょうか? 賢者たちもヨーギーも、「それは可能である」というのです。

これが、瞑想の目的であるのです。

最終的に真の自分の本質を見つけ、外の世界に探し求めていた究極の幸せを見つけ、神と異なることのない本当の自己を見つけ、それがゆえにすべてのものの本質に神を見ることができる。

これが真の瞑想です。

 

 

 

.....(続きは動画をご覧下さい)

Part1-1〜1-7まではこちらから!

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『オン・メディテーション 』bySriM 2020年10月刊行!「あなたの本質をヒマラヤに探しに行く必要はありません。」ーなぜ瞑想するのか⑦

『ヒマラヤの師と共に』のSriMの最新作!『オン・メディテーション 現代を生きるヨーギーの瞑想問答』2020年10月発売!

「私たちはなぜ瞑想するのか⑥」

昨年のパブリックに向けた講演会の内容で、とてもわかりやすい動画になっています。本への導入としてもおすすめです。

本書はマインドフルネスや呼吸と身体、ヨガ、そして意識について余すところなく91のQ and A方式で書かれています。お楽しみに。

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<一部抜粋>

私たちがしていることは、私たちの内側に向い、元々ある本質へ向かうことです。ヒマラヤに見つけに行く必要はないのです。今、ここに、あなたと共にあるのですから。

 

ウパニシャッドにある次の言葉以上に解放をもたらすメッセージを私は知りません。「あなたの自由、喜び、完全性、 自己実現は、すべてあなたの中にあります。どこに行く必要もありません」

 

瞑想をする人の中には、その実在を見つけたくて瞑想する人もいます。

そして、そのような目的を持って瞑想する人たちは、ただストレスを軽減したいと思って瞑想する人たちや、その他の理由で瞑想をする人々よりも、より成熟することができ、先に進むことができます。

 

.....(続きは動画をご覧下さい)

  

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子育てなんかできない! 第8稿 ゆっきぃ

 

《今更ですが子育てってなんですか?》

 

こんにちは!ゆっきぃです。

もうすっかり朝晩の風や日中の日差しが『秋!』ですね。

夏が大好きな私としては毎年この時期がとても寂しいです。

みなさんはどうですか?

でもなんですかね、歳ですかね。

「秋もいいもんだなぁ…。」なんて思い始めちゃったりしています。

 

さて。

前回で『あきらめる』について書き切ってしまった私は「はて?今回は何を書こうか?」と首を捻っています。

あれは絶対に書きたかったものなので、すこぉしだけやり切った感がありまして。

(「少しだけやり切った感がある」って変な日本語だな。)

 

前回のお話しにも書きましたが、あれが私の長い自己紹介です。

いつも、いつだってあれをベースに生きています。

いつだって「明らか」に「観て」いきたい。

あきらめていたい。

これが私のベースです。

(なかなか難しいのですけれど。)

 

『あきらめるシリーズ』をまだ読んでいないという方はこちらをぜひどうぞ。↓↓↓

 

子育てなんかできない!1~7稿

 

かつての私は「いい女になろう!なりたい!」や「いい奥さんになろう!なりたいんだ!」、そして「いい母親になろう!ならなければ!」といつも意気込んでいました。

素の自分のことが大大大大嫌いな時期が長かったためです。(今も心から『大好き!!』とは言えませんが。未だにあきらめが悪いっす。笑)

いい女になろう!いい奥さんになろう!良い母親になろう!はどこか前向きな感じがして、良いことをしているような錯覚に陥ります。

『努力をしている素晴らしい前向きな人』と見られることもあるでしょうし、そんなイメージがありませんか?

私はどこかでそんな風に感じていました。だからいいことをしているんだ!と。

(書いていて恥ずかしいです…。)

ですが。

ですが!です。↓↓

「いい女になろう!なりたい!」は、言い換えると「今はまったくいい女ではない!こんな私はダメだ!」です。

「いい奥さんになろう!なりたいんだ!」は「今は全然ダメだ!こんなんではダメだ!」です。

「良い母親になろう!ならなければ!」は「このままではまったくひどい母親だ!この子のためにならない!ダメだ!」です。

 

なんということでしょう。

私は無意識にこんなことを繰り返していたのです。

この『無意識に』がとても怖い。

だっていいことをしているような気になっているんですから。無意識に。(怖い!!)

私は私に毎日しこたまダメ出しをしていたのです。

これでもか!と言わんばかりに。

無自覚、無意識に。

 

「いい母親になろう。いや、ならなければ!」って思いません?

子どもができたら割とみんな思うんじゃないかな。

だって目の前にいる我が子はめちゃくちゃ可愛いですから。

その前にあった「いい奥さんになろう!」「いい女になろう!」すら忘れてしまうくらい思うんじゃないでしょうか。

 

私はある日、愕然としました。

私は私のもっている「良い母親像」に自分を当てはめようとしていることに気付いたからです。

私は私のもっている「いい女像」「いい奥さん像」「良い母親像」にいつもいつも自分を当てはめようとしていたことに気付いたからです。

私の思っている「良い母親」が誰にとってどう「良い母親」なのかもわからないのに。

そもそも「良い母親像」がいつ創られたかもわからないのに。

それに私の持っている「良い母親像」が目の前のこの子にとっての「良い母親」なのかどうかもわからないのに。

私は私の頭の中にいる「良い母親像」をちゃんと観て、それからきょろきょろと探しました。

「え?そんな人どこにいる?そんな母親どこにいますか?」と。

 

お料理は完璧。

いつも朗らかで明るい。

家事はいつもばっちり。

家計をうまくやりくりしている。

旦那さんをいつも立てている。

質素倹約。

無駄使いはしない。

いつも優しい。

いつだって子どもと旦那さん優先。

でもいつも身綺麗で美しい。

 

私がもっていた「良い母親像」はこれでした。

昭和感ヤバい。笑

モデルのベースは私の母親でした。(←お決まりのパターン。)(しかも実際の母親はこんなに完ぺきな人ではありません。あくまでもベースです。)

これがあまりにも私とかけ離れすぎていてとても苦しかったのです。

当たり前ですよね。

どこにもいない、頭の中だけにいるこの女性になろうとしていたのですから。

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夏休みに南伊豆に行きました。朝の海。いい写真だな。

私はこれに気付いた時に「こんなの止めよう!」と思いました。

そんなのおかしいじゃん!と思ったし、とても窮屈に感じていたからです。

でも、止めようと思ってもなかなか止められていない自分に出会いました。

ふとやってしまう行為、何気なく言ってしまう言葉、それらにびっしりとその思い込みがこびりついているのです。

 

ほんとは今やりたくない家事なのに「いいよ、私がやるから。」という私。

何もわかっちゃいないのに「子どもにはこのくらいの躾はちゃんとしなければね。」とママ友さんたちと話す私。

「子どもを○○時までには寝かしつけなきゃ。そうじゃなきゃ子供にとってよくないから。」と頑なに時間を守ろうとする私。

自分の体調が悪かろうがちゃんと身体に良い食事を毎回毎回必死に作ろうとしている私。

もう全てが自分の持っている「良い母親像」に合わせた言葉や行動でした。

いくらそれをもう止めよう!と決意しても、ずっと無意識にやっていた行為を止めることはできないことを知りました。

だから私は「まず気付こう。」としました。

そして自分が言っている言葉、やっている行為に疑問を持とうとしました。

それはどこから言っている?

それはどうしてやった行為?

それほんとう?

と。

今でもそれを続けています。

どこまでも続くこの強固な『思い込み』を壊したいからです。

どこまでものびのびと生きたいからです。

私は誰だろう?どこにいるんだろう?を知りたいからです。

 

そうしたらわからなくなりました。

 

『子育て』ってなんですか?

 

私がどこにいて、何がどうなって今これを思っているかもよくわからないのに、私が誰かを育てることなんてできるのでしょうか。

 

結婚してすぐの頃、私は母親の前でこう呟きました。

「子どもは…欲しいとは思ってるんだよねぇ…。」と。

子どもを産む自身も育てる自信もまるでありませんでしたが、元々子どもが大好きだったのでそう呟いたのです。

私の母親はその言葉を聞いてこんな言葉を口にしました。

「子どもは可愛いわよぉ!でもね、可愛いだけじゃ育てられないからねぇ。」

 

これ、よく聞く言葉じゃありませんか?

私は母親のその言葉を聞いて「そうだよなぁ。」となんとなく納得してしまい、そして怖気づきました。

そんな大層なこと私にはできない、と。

 

でも今現在、9歳になった娘がいる私はこう思っています。

「可愛いだけでも育つよ。」と。

 

夫の亮一さんはよくこんなことを言います。

「家族ってチームみたいなもんだね。」と。

『生きる』ってどういうことだろうね?と模索し合うチームだと。

そしてどうせなら『楽しく幸せに』生きるってどういうことだろうね?を模索したいよね。と。

父親という肩書『も』持ちながら、母親という肩書『も』持ちながら、娘という肩書『も』持ちながら、一緒に暮らして「楽しく幸せな人生を生きる」もしくは「生きる」とはどういうことだろうね?とお互い模索し合うチーム。

素敵じゃないですか?

 

亮一さんと私と娘はチームメイトです。

親と娘という肩書はありますが、これはただの肩書です。

対等だと思っています。

私は彼女を尊敬しているし、尊重もしたい。

応援もしたいし、もし助けが必要なら全力で助けたい。

でも私も応援してくれたら嬉しいし、助けてもらいたいときは正直に「助けて!」と言いたい。

 

さて。

子育ってってなんでしょう?

私にはわからないし、できません。

良い母親にもなれません。

でも毎日がとてものびのびしていて以前よりはずっとずっと楽です。。

 

娘がある日こんなことを言いました。

「ママは変わってるよね。お友達も言うよ。○○ちゃんのママって変わってて面白いね!って。」

私は「へー!どこが?」と聞きました。

娘はちょっと考えながら「なんか…親らしくないっていうか…とにかく面白いよ!」と言った後、こう続けました。

「○○ちゃんは大きくなったらママみたいなママになりたいよ!」

 

 

…順調に変わった娘に育っているようです。笑

私は“子育て”なんてした覚えがないのに。

 

これが正解かなんてわかりません。

これでいいのかな…?と思うこともしばしばあります。

でもいつだってここに立ち返ります。↓↓

 

みんな何にもわからないまま生きているんだね。

『生きる』の正解がわからないんだからね。

だったら少しでも楽しく生きたほうがいいと思わない?

はて?

ところで楽しいってなんだろうね?

探しながらいこっか!一緒に。

ママもよくわからないし、パパもよくわからないまま生きているから間違えることもたくさんあるけれどさ。

一緒に泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり憤ったりしながら、よかったら一緒に行こうか!

一緒の方がきっと勇気も出るし、もし失敗しても笑えるよ。

とりあえずよかったら一緒に探してみない?

ママもパパも探しているんだ。

探してる最中もきっと楽しいね。

 

今日も私は相変わらず子育てができません。

仕方ないね!あははは!

もう笑っちゃおう!

 

今月も読んでくれてありがとうございます。

来月は何を書こうかな。

よかったらまた読んでみて下さいね。

ではまた。