蓮華舎のブログ。

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子育てなんかできない! 第3稿 ゆっきぃ

子育てなんかできない! 第3稿  ゆっきぃ

《私は妊娠出産育児?で『あきらめる』のパワフルさを知りました。②》

 

お久しぶりです。ゆっきぃです。

前回の投稿からもう一ヶ月もたってしまったんですね。早いなぁ。

今、世の中が大きく動いておりますね。

みなさまは元気でお過ごしでしょうか?

私たち家族は家でのほほんと過ごしております。

不安や焦り、恐怖に巻き込まれそうになっている方がもしいらっしゃったら、今だけでもこのお話しを読んで『自分』に戻ってみて下さい。

もしよかったらお付き合いくださいね。

 

さて、前回の続きです。

まだ読んでない方がいらっしゃったらまずはこちらをご一読ください。↓↓↓

子育てなんかできない! ゆっきぃ 第二稿 - 蓮華舎のブログ。

 

最愛の旦那さまの言葉を聞き、『あきらめる』とはどういうことだろう?と少し首を傾げながら考え始めた私ですが、それはなかなかに難しいことでした。

やっぱり娘を帝王切開で産んだことがひっかかっていたし、それのせいで母乳も思うように出ないのではないかと何度も何度も考えました。

出産は仕方がなかったかもしれないけど、だったら母乳育児だけはなんとしても!と半ば意地になっていた私は桶谷式のおっぱいマッサージに何度も通い、指導を仰ぎましたが行くたびに食事内容について怒られる始末。

「ご飯は一日最低3合は食べなきゃ!大きなおにぎりを朝何個も作っておくのよ!そしたらいつでもたべられるでしょ?ゆっきぃさんは量が少なすぎる!もっとご飯を食べなさーい!」

って、言われたってねぇ。そんなに食えんのですよ。でも無理やり大量のご飯を食べてる私は一体何がしたいのかわからなくなりました。

そして夜中の授乳は母乳にとってとても重要だと言われ、がっつり寝ている娘におっぱいを必ず咥えさせてくれと言われたのです。

母乳育児に意地になっている私は熟睡している娘に泣く泣くおっぱいを咥えさせたのですが…

 

結果、娘大号泣。

そりゃそうだよね。笑

 

「そんなに食べたくもないご飯を食べるの辛くない?」

「ぐっすり寝てる時に飲みたくもないおっぱい飲ませられるのって普通いやだよなぁ…俺だったら嫌だなぁ…」

「母乳じゃなくてミルクでもいいんじゃない?だってさ、今娘ちゃんは元気だしご機嫌だよ。

娘ちゃんもゆっきぃもご機嫌のほうがいいよ。俺よくわかんないけどさ。」

 

旦那さんのその言葉にすこーし反発を覚えながらも「そ、そうですよね!私、楽していいんですよね!!」と目が覚める私。

それから私は一体何でこんなに『自然分娩』や『母乳育児』に固執しているんだろう?と改めて考えました。

そうすると、とても面白いことがわかってきたのです。

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夜中におっぱいをむりやり咥えさせられていた娘(8歳。)が書いた「どんだけぇー!!」 あの時はすいませんでした。

 

私の母親は私を含め、3人を帝王切開で出産しました。

一番上の姉がお腹にいる時に逆子が治らなかったからです。

兄を出産するときは自然分娩にチャレンジするも、子宮口が開き切らず、泣く泣く帝王切開になりました。(私と同じ。)

で、必然的に私を産むときも帝王切開出産。

そんな出産を経験した母の口癖があります。

 

「お母さんは3人とも下から産むことができなかったから女として欠陥品なのよぉ。あんたたちをちゃんと産んであげられなかったのよねぇ。ごめんねぇ。」

 

私は小さいころからこの口癖を何度も聞いてきました。

もちろん母に悪気はありません。

母も口惜しかったのでしょう。

“いつの間にか”私はこの母の言葉を自分の中に持ち続けていたのでした。

無意識に。

そして「私が自然分娩をしてお母さんを安心させてあげなくちゃ。」という気持ちが湧いてきていたのです。

もし私が帝王切開で出産してしまったら母が悲しむだろうし、「お母さんのせいで…」とか言われちゃうだろう。と。(姉も帝王切開で出産していたものですから尚更です。)

それに加え、私は私を「女として欠落している存在だ」とずっと思っていて、とても自信がなかったのです。

出産と育児でそれを覆してやる!そうじゃないことを証明してやる!と“いつの間にか”思っていた私。

“いつの間にか”って怖いです。

自覚するまで無自覚ですからね。(当たり前か)

私は出産と母乳育児が思うようにいかなかったことで無自覚だったことを自覚することができました。

私は私がそんなことを思っていたことに気付き、「あはは」と笑いました。

出産方法や育児方法と『女として欠落している』とは全く関係ないじゃん!!

ましてや母親の人生と私の人生は全く違うものじゃん!!

そんなとてつもなく当たり前のことに「あはは」と笑いながら気付いたのです。

私はやっとあっけらかんと「まぁ帝王切開だったけど別にいいじゃん」「まぁ母乳とミルクの混合育児でも別にいいじゃん」と思えたのです。

「あはは」と笑えたその時、もしかしてこれが『あきらめる』なのかもしれないと“ほんのり”思えました。

それからの私は毎日らくーに楽しく可愛い娘ちゃんと愛しい旦那さんとますます「わはは」と笑いながら過ごしていたのですが…

 

私が『あきらめる』を知るのにはこんな生ぬるい出来事ではだめだったのでしょう。

なにせ『あきらめの悪い女』ですから。

 

その後、私にさらなる『あきらめる』を体感させるようなとても大きな出来事が起こります。

その出来事は突然やってきました。

 

娘が2歳になった時、私は旦那さんに「もう一人子供が欲しい」と言いました。

娘が弟か妹と一緒に遊んでる姿が見たかったからです。

私は『子どもが2人の4人家族』を夢見ました。これはきっとよくある普通のことですよね。

一度流産を経験したのち、私は無事に妊娠をしました。

(流産もけっこう悲しかったですよ。びっくりしたし。)

とても嬉しかったし、これで夢見た通りの家族がつくれる!と歓喜しました。

つわりは相変わらず辛く苦しかったけれど、そんなものだと思っていました。

十月十日後には元気な赤ちゃんが生まれてくるんだから今は仕方がない、と。

 

が。

 

妊娠31週の検診の時、担当の先生がこんなことを言いました。

 

「んー…ちょっと頭が大きいなぁ…」

 

エコーを診る時間がやたら長い。

ずっと診続けている。

 

「ちょっともう一人の先生に診てもらいますね。」

担当の先生はいつもなら呼ばないもう一人の先生を呼びました。

その時、2人の先生の会話からこんな声が漏れ聞こえてきたのです。

 

「んー…18…の可能性は…」

 

私は聞き逃しませんでした。

18という数字を。

すぐに私の脳裏に『18トリソミー』という言葉が浮かびました。

 

私の楽しい2人目妊婦生活はここからガラリと変わります。

 

さて、そのお話しはまた次回。

ここから何が起きるのか?!

よかったら次回も読んでくださいね。

ではまた!

 

SriM氏のサットサンガー3/26 On Solitude ひとりであること、静かであること について。

現在インドでは全土封鎖が続いており、世界でも初期から最も厳しい規制のもとで新型コロナへの対策が取られています。

現状を受けて、SriM氏の母体であるサットサンガファンデーションは、サットサンガ(集まり)をオンラインで世界に向けて放映しています。

 

オンラインサットサンガ「Wisdom Series」3/26放映分から、

On Solitude ーひとりであること、静かであること についてをお届けします。

(以下、一部抜粋)

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今はまず第一に、WHOのガイドラインに従ってください。

それが身体的にすべきことです。

そして、いま「外に行けない」ということはある意味において、素晴らしい機会になりえます。静かに家の中に座り、自分と向き合うことができます。


たとえあなたが家の中に静かに座っていても、気を散らすものは他人や外側からくるものだけではなく、あなたの内からも来ることがわかるでしょう。

あなたがこれまでに学んできたこと、そういったものからの条件付け、良い経験、悪い経験、記憶、それらがあなたを「ひとり」にはしないのです。

心は敵にも味方にもなります。内にこもって全ては静かであるのに、心がお話をし続けていたら、それは「静か」になるのでしょうか? 心の中の絶え間ないおしゃべりがあなたを苦しめます。
そういったものから完全に自由になれることなどあるだろうかと思うかもしれませんね。まずは、それから自由にならなければいけないと気づくことが最初のステップです。そして、心の中にある条件づけを解除すること、印象をきれいにしていく必要があります。全ての印象がなくなり生まれた時の心の状態になったとしても、この世で生きていけるのです。

 

静けさ、ソリテュードは、孤独とは異なります。この静けさは心の状態なのです。そして、外にいても内にいても変わりようがないのです。隠遁したとしても心が騒がしければ意味もありません。
もっとも、今は中にいるべきです。外に出ることはあなただけなく、他の人にも危険をもたらすからです。

家の中でじっとしてください。ひとりであること/静けさーソリテュードと手を握り合ってください。心を条件づけから解除すること。それにはテクニックがあります。

あなたの心が本当に没入できることをしてみてください。瞑想でも音楽でも絵でもいいのです。静けさは、素晴らしいのです。音楽を聴くことでも、絵を描くことでも、心が没入することをしてみてください。そしてこの静けさは、今見つけたら、この事態が収束したとしても残り続けます。

「静けさ」から得られる悦びを阻害しているのは、心のノイズです。そこに気付かなければなりません。

静けさは、ひとりであることは、すばらしいのです。決して孤独ではありません。

 

それからもう一つ。

今、銀行の預金はあなたに何かをしてくれるわけではありません。しかし、銀行に1銭も預金がない人たちと分かち合おうとすることはできます。
今このウィルスのために苦しんでいる人がたくさんいます。この惨禍によって苦しみの増大する人たちが大勢出てきています。
分かち合うのです。
分かち合うということは、私たちが他と共にあり、他と何も違いがないのだという理解に至らせてくれるのです。幸せも苦しみも皆共通にあるのです。
できる限りで良いのです、助け合い、分かち合いましょう。
銀行がお金を他のために拠出してくれることはないでしょう。それができるのは「私たち」なのです。

 

終わる前に一つだけ言わせてください。
OMという音、唱えることでも、聞くことでも良いですが、OMの音はあなたを静けさへと連れて行きます。そしてついには、OMの音すらも消えます。そして「空」に至ります。空は「無」ではなく「全て」のエッセンスです。「0」です。ゼロは無ではないのです。
意識が何の制約も受けずに拡大していることが「空」です。それは、プールナ=完全です。


イライラせず、リラックスして、心を平安に保つこと。OMの静けさを感じてください。
そして、今は自他を危険にさらさないよう、全ての規制に従うことが必要です。

 

 

 

 

山田麻子 今月のひと筆。2020年4月

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©Asako Yamada

 

一気に地球全体が緊張している事態の今

この言葉があるとすれば どういう事なのかを考えています。

あるのは 一本の縄 。           

                                                                 麻子

 

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【禍福は糾える縄の如し】

 

災禍と幸福とは縒り合わせた縄のように表裏一体のものである。
 

 

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【舎長おーちゃんが行く!⑤ 】それでも春はやってくる。そして、新しい本の構想について。

みなさん、こんにちは!

久々のおーちゃんシリーズです。

 

大なり小なり、誰もがコロナショックを被っている今日この頃ですね。

黙示録の世界、のような言葉がSNSで飛び交っていますが、

日々の生活も、人生も終わるところまでは続いていきます。

きっと、みなさん家の滞在時間が長くなったのではないでしょうか?

いつもできないことができている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私とて例外ではなく、

突如思い立って、こんな映画を見ました!

 

みなさんご存知でしょうか?

 

 

wikiから抜粋するとこんな始まり。

 「地球外知的生命体プロジェクトの研究者エリー(ジョディー・フォスター)はアレシボ天文台で探査と研究をしていた。

しかし、先の見えないプロジェクトに対し懐疑的な天文学の権威ドラムリンによって、エリーのチームは研究費とアレシボの利用権を打ち切られ、研究は中断を余儀なくさせられてしまう。

エリーは独自の資金源を求め、ついにS・R・ハデンという富豪スポンサーを得ることに成功する。探査を再開したある日、彼女は遂にヴェガから断続的に発信し続けられる有意な電波信号を受信。チームは色めき立つが次第にエリーの思惑とは関係ない方向へと事態が進行していく….」

 

1997年のアメリカ映画で、興行収益は芳しくなかったらしいですが、本当に面白かった….

おすすめされた時は、エイリアンものなのか? と思いきや、メッセージ力の強い映画でした。。。

 

映画の中にこんな会話が出てきます。

(以下、ネタバレまくりです)

 

大統領の宗教関係顧問パーマー:

「人々は人生の意味に最も飢えている。科学がそれを奪った」

エリー:「科学が神を殺したような言い方だわ。科学は神がもとから不在であったことを証明しただけかもしれない。オッカムのカミソリを知ってる?」

パーマー :「ホラー映画?」

エリー :「違うわよ、科学の格言。’単純な説明ほど正しいものである’」

パーマー :「なるほど」

エリー :「それでは、どちらが単純?『神は宇宙を創造したのち、自己の存在証明は放棄した』あるいは『存在しない神を人間が作った。よりどころを求めるために』」

パーマー :「わからないね。でも、僕は神のいない世界を考えることができない。考えたくもない」

エリー :「それが幻想でないとどうやって言えるの?  私には証明が必要なのよ」

 

……のち、多額の資金を提供するスポンサー、エリーの功績を横取りしようとする天文学の権威ドラムリン、カルト宗教家、政府関係者、様々な人々の思惑が交錯していきます。

 

そして終盤。

ヴェガへと向かう宇宙船に単身で乗り込んだ時に起こった出来事を、エリーが説明しても、今度は逆に、それが幻想でないと言えるのか? と問い詰められる立場になってしまうのです!ハラハラ!!

 

時空の一点から別の一点へと直結する「ワーム・ホール」を通って到達した場所でエリーが体験した‘相対性理論では18時間だが、地上では一瞬’の合間に垣間見た世界は

「とても言葉では言い表せないほどの宇宙の光景」

であり、

「証明が不可能」

であったにもかかわらず、誰に何を言われても疑いようもない体験だったからです。

 

そして、エリーはその体験をして

「私を永遠に変えてしまいました」

と語り

パーマーは

「宗教と科学は同じところを目指している」

とエリーを擁護。

 

いささか宗教色の濃い作品のように見えますが、原作者のカール・セーガンは著名な実証主義者で、宗教にも輪廻転生にも懐疑的だったとのこと。

私は最後のジョディ・フォスターの名演と内容にボロ泣きしながら、科学と宗教はずっとこんな題材になるほどに平行線だったんだなぁ...とぼんやり思っていました。

 

そして、先月から少しずつご紹介している研究についても思いました。

 

✳︎ ✳︎ ✳︎

 

科学と宗教、物質と精神の間にかけられる橋がどのように出来上がってきたか。

どのように実証がなされたか。

その道なき道の道程について、目下、小野田智之さんに執筆いただいています!

 

やりとりの一部をこちらに載せていただいていますが....

 

そう遠くない未来に、本にする気満々!

 研究の黎明期から未来にかかる橋が生まれる瞬間を目撃させてもらえるようなものになると思います。

 

回想録2(カテゴリー:執筆日記)

 

無から有を生み出す創造の過程は、それ自体が小説よりも、SFよりも壮大な冒険の記録であり、

これから自分の道を作り出していく若い人々にとっても道標となるはずです。

どうぞ(まだ先だけど)楽しみにお待ちください。

 

そして、いつ何時も、私たちもまた、誰の真似事でもない自分自身の人生という冒険物語の真っ最中、、、その最先端、であることを忘れずに過ごしたいですね。

先が全然わかっていないからこそ、それは面白いです。

 

 

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春だね!

 

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子育てなんかできない! 藤山幸江 ゆっきぃ 第二稿

《私は妊娠出産育児?で『あきらめる』のパワフルさを知りました。①》

 

お久しぶりです。ゆっきぃです!

毎日くだらないことでケラケラと笑って過ごしている44歳既婚娘一人の私ですが、こうなるまでにはいろんな道程がありました。

蓮華舎さんでの連載のスタートとして何を書こうかいろいろ悩んだのですが、今の私に成るまでに必要不可欠だった出来事と気付きについて書いていきたいと思います。

これが役に立つかどうかはわかりませんが、これはどうしても書きたい!と思ったことなのでよかったらお付き合いくださいね。

 

私には現在8歳になる1人娘がいます。めちゃくそ可愛いです。

こんな存在が地球上にいるなんて!!!と毎日驚愕するほど可愛くてたまらない。

でも、そう“心から”“条件なしに”思えるようになれたのは妊娠出産育児(?)で体験した『あきらめる』があったからだと感じています。

これから何回かに渡って『あきらめる』をテーマに綴っていきます。

『あきらめる』がわかるととってもパワフルで幸福なんですよ!

信じられます?!

今日は私の出産のお話しから。

私は娘を産むとき『水中出産』を希望していました。

あんなに気持ちよさそうなことないじゃん!なんて思っていましてね。

なので両親や姉兄の反対&心配をよそに、水中出産ができる助産院で出産することを決めていました。

「夫婦2人でプールみたいなお風呂に入ってさ、そんでさ、後ろからハグしてもらってさ、そんでさ、スルン!って産むんだよぉぉーー!!めっちゃ楽しそうじゃない?!」

こんな風にあっけらかんと。

ですが結果は素晴らしく見事に私を裏切ります。

私の出産の始まりは破水からでした。

(*『破水』とは胎児を包んでいる膜が破れ、中の羊水がでてきてしまうことです。普通は陣痛が始まってから破水をして胎児が出てきます。)

 

破水から始まってしまうと感染症の心配から水中出産はできません。

あんなに楽しみにしていた出産をいきなり絶望が襲います。(大げさに聞こえます?)

それでも助産院で自然分娩ができるならいい!

水中出産ができなくても通院していた助産院で出産ができるならいい!と気持ちを立て直す私。

が、私の出産はことごとく私の希望を裏切ります。

破水をした後すぐに陣痛がやってくるはずなのに、待てど暮らせど陣痛がやってきません。

シーンとしている私のお腹。

「え?もっと痛くなるはずだよね?」

「あれ?破水したらすぐにどんどん痛くなるはずなんじゃないの?」

時間の経過と共に、私の焦りはどんどん増していく。

なぜなら破水をしてから48時間以内に陣痛がやってこなければ緊急帝王切開になってしまうから。

 

「やだよぉ~。あんなに頑張ってたのに帝王切開になっちゃうの嫌だよぉ~。」と泣きながら股に分厚いパッドを挟んで神社の階段の上り下りを何往復もする私。

(階段の上り下りをすると陣痛が促進されると言われたんですよ。)

それを見守る最愛の旦那さま。

時間はどんどん過ぎていく。

今日の日まで自然分娩ができるように毎日3時間くらい歩いたり、食べ物にもそれなりに気を使ったり、きっついツワリにも耐えたり…

私、頑張ってきたのに!!!

私の希望が叶わないなんてそんなはずないっ!!!

そんな思いに押しつぶされそうでした。

 

結局私の出産は

水中出産もしくは自然分娩で「うふふ♡幸せ出産♡」を希望、理想としていたのに、

助産院から嘱託医に行くことになる→陣痛促進剤を投与されバルーンを挿入される→促進剤での「いっそ殺してくれ!!!」というほどの陣痛を8時間ほど堪える→挙句の果てにタイムリミットが来て「はい!帝王切開手術ねーー」と言われる

というものになりました。

自然分娩とは真逆の出産。

薬で陣痛を促進した上、結局手術。

私、かなりのショックで号泣。

泣きながら帝王切開手術の準備をされる私に看護士さんがこんなことを言ったのを覚えています。

「辛いよねぇ。頑張ったのにねぇ。でもね、お母さんも赤ちゃんも元気で無事なのが一番大切だからね。」

帝王切開が始まったら10分くらいで赤ちゃんに会えるから。ね。」

「このまま心拍が下がっちゃう方が心配でしょ?元気に産んであげよう。」

 

そして陣痛促進剤でのきっつい陣痛に堪えていた姿を見ていた母親が、私の手を握ってこう言いました。

「辛いよねぇ。あんなに頑張ったのにねぇ。でもあんたと赤ちゃんが無事ならいいのよ。頑張んなさい。ね?頑張れ!」

 

そんな思いやりのある優しい言葉をかけてもらったのにも関わらず、帝王切開で産むことに決まった時、私は悔しくて悔しくて悲しくて悲しくて仕方がなかった。

あの時はお腹の赤ちゃんが無事かどうかよりも、私の希望が叶わないなんて!!という絶望と、私の思い描いていた『理想の姿』を体現できないなんて!!という憤りでいっぱいだった気がします。

なんてひどい母親でしょう。

 

私が娘を出産した病院はとても素敵な病院で、帝王切開手術での出産に旦那さんが立ち会うことができました。

少し離れた場所で椅子に座って私の手術での出産を落ち着いてみている旦那さん。

娘は私と旦那さんが見守る中、無事にお腹からガバッと出てきました。

「おぎゃー!」という元気な声と共に。

その血まみれの紫色をした人間型の物体を見て、私たち二人はこんなことを同時に思ったんだよね。

「わ!ほんとに人間が入ってたんだ!!」

「わ!めっちゃ可愛い!!」

てね。

 

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あんなに紫で小さかったのがこんな風になるなんて…

 

私は希望していた水中出産ができませんでした。

私は渇望していた自然分娩ができませんでした。

希望と理想にむかって頑張ったのに。

勉強もたくさんしたのに。

 

生まれた娘はとにかく可愛くて仕方がないのに、出産してしばらくは悲しくて悔しかった。

その後、私はすぐに母乳問題でまたもや理想とはかけ離れた事実を突きつけられて泣いたり悩んだりします。(なかなか母乳がでなかったのです)

出産が望み通りにいかなかったことに加えて母乳問題まで。

母乳がなかなか出ないことが辛くて泣きながらおっぱいを咥えさせ、「足りない!」と泣く娘に泣きながら哺乳瓶でミルクをあげる。

ミルクをごくごく飲む娘を見て泣けて泣けて仕方がなかった。

私のおっぱいではなく、粉ミルクをごくごく飲む姿が嫌で仕方がなかったのです。

そしてお腹がいっぱいになるとすぐに寝てしまう娘。

まったく手がかからないめちゃくちゃいい子でめちゃくちゃ可愛いのに、ただただ私の理想と違うことが許せなかった。

そんな私の話しをいつも聞いてくれる旦那さんがある日こんなことを言いました。

 

「この子はゆっきぃに『あきらめる』を教えてくれてるんだねぇ。」

 

私は旦那さんのこの言葉を聞いた時「なぬっ?!!」とほんの少しの反発を覚えました。

『あきらめる』ってなに?

どういうこと?

あきらめきれないよ。

何をどうやってあきらめるっていうの?

あきらめちゃったら終わりでしょ?

 

そんなことを感じている反面、どこかでそうなんだろうなぁと思っている私。

私はそれから『あきらめる』とはどういうことだろう?と考えるようになりました。

私はどうして『あきらめられない!』なんて思っているのだろう?と。

 

私はどうしようもなく『あきらめの悪い女』なのでしょう。

この後、ますます私に『あきらめる』を教えてくれる体験が待っていました。

 

その話しはまた次回。

最後まで読んでくれてありがとうございます!

よかったら次回も読んでくださいね。

 

ではまた。

山田麻子 今月のひと筆。2020年3月

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©Asako Yamada

【趣く】

 

1. その方向へ向ける。向かって行かせる。

2. 人の心をその方へ向かわせる。

3. ことがその方へうまく運ぶようにする。

4. その方向で考える。
 

 

 

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【舎長おーちゃんが行く!④】舎長、キャパオーバーになる の巻。

みなさんこんにちは。

 

先週私は、とうとう感染ではないか!!という程体調を崩して悶絶していました。

 

わたしは昔から心の状態が即身体症状としてあまりに解り易くあらわれるタイプで、思い起こせば、学校をまともに卒業できたことが見事に一度もございません。

身体症状にあらわれて登校を拒否することはしょっちゅうで、文字通り問題行動をよく起こしました。

 

そんなことを繰り返したため、一応長い付き合いである自分の心と体の相関関係は、わりとよくわかってきました。

ですので、この具合の悪さは一体何だろう...と悶絶の内に考えていました。

 

そして、ある程度わかったのですが、

私は自覚のまったくもって欠如した状態で社長になったために、例えば、会う人に「私の本を出してください!」とか「これまでの軌跡をまとめたい」とか「仕事をください」とか「自伝を」とか「作品集を」などなど言われる状態に心の準備も耐性もできていなかったようです。

(私も言いたい、「舎長業以外でも仕事なんでもやりますよ!」)

 

このように言われることが多くて正直、少々驚いています。

みなさん様々に成し遂げたことがあるのだと思います。

 

しかし....会って1分も経っていないのに、そういわれても...

電話ではじめて話しただけで、そういわれても....

 

うーん。

 

加えて、経理。面談。確定申告。翻訳原稿のチェック。映像の編集。新しい本のこと。お金は足りるのかな、とか、いつまでに何を仕上げたらいいのかな、とか諸々の算段。それから、今日はあの書店さんに本の補充をしてくださいと言わなくちゃとか.....

今までまっったく使う気すらなかった部分の頭を使う日々。

 

ただ、毎回感動するのですが、蓮華舎はほぼ週1の会議に、常時4人くらいの人が集まります。

そして、私に足りない諸々のことをカヴァーしてくださいます。

更に、空いている時間を使って、税金の処理を手伝ってくれたり、お金の振り込みをしてくれたり、資料をつくってくれたり、カメラを貸してくれたり、倉庫を提供してくださったり、本の運搬を手伝って下さったり、蓮華舎の社会的役割というのをアドヴァイス下さったり、そのほかにも実にさまざまなるフォローの手によって存続しています。

 

ですので、口が裂けても「ひとり出版社です」とはいえません!

 

....と、そうはいっても、自分でやらなければならないこと、やるべきことはいろいろある。

 

あれ?

 

何のためにこれやろうと思ったんだっけ....

 

おかしい。

 

 

どうやらこの違和感が体調不良の原因にあるようでした。

 

どうしようもなくエネルギーが低下していました。

 

 

正直に申してはいけないのかもしれないのですが、

わたしは出版社を経営したいとも、編集作業をしたいとも、そんなことはまったく思ったことがございません。

そして、多分これからも、ないのではないかと思うのです。

 

今やっていることは、自分の生きることに直結しているためにやっているだけなので、直結しなくなったらまた1からやり直そう。

そう思います。

 

私は自分が知りたいのと、あなたが知りたいのと、世界が知りたい。世界とは、絶対的な何かで、できることならどこかで聞いてきた知識ではなく、自分で知りたいと思います。

 

そして、そのために必要な様々に複雑で面倒でどうしようもなくこの世的、手続き的、人間関係的なこともそれはもう引き受ける!

 

しかし、万一キャパオーバーで引き受けきれなかったら誰に言ったらいいかわかりませんが、本当にごめんなさい!これくらいしかできないのです!

 

というわけで、

自分の社会から見られる立場と、自分の思っている自分の立ち位置に齟齬があって、そして無自覚に義務的な事に自分を合わせてしまったりしたことが、どうやら身体症状となってあらわれたようでした。

 

「本当の自分」はよくわからないけど、今の時点の「自分の本音」なら、まっすぐ問えばわかる。むちゃくちゃ利己的に聞こえることでも、その小さな声の本音を無視しないようにしようと思いました。

 

たぶん何度もここに戻らないといけないと思うのですが、

自覚0のまま、それでもそのようにしながらやっていこうと思います。

 

いつだって好きでやってるんだということを忘れないようにしたいです。

 

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